治療のために有効なお勉強
Tellenbachは常識としても、
Janzarikやその他を知って、理解して、自分のものとして使って、
果たして、治療効果に差が出るものか。
難しい言葉を使わなくても、
あっけなく、同じ結論を導く人はいる。
あるいは、精神分析的概念にもいろいろあって、
ラカンとか、そのようなものを知って理解している医者と、
そうでない医者で、治療効果として有意差が出るものか。
この点についての、統計的検定は難しい。
他は全部同じだけれど、ラカンを知っていると知らないだけが違うという二群の医者を、
用意することはできないだろう。
いくつもの要素を検定対象にすれば、
ラカンを理解している・いないよりも重要な要素が抽出され、
そちらの議論に、ラカンもJanzarikもかすんでしまうだろう。
副次的な要素に過ぎなくなるだろう。
しかしまた、すべては治療の有効性のためにと考えるのも狭い了見と言うもので、
知的好奇心のために探求することも、長い目でみれば意味がある。
いろんな学者を、精神病理学的な目で眺めるという、次元の違う見方も、
つまらないわけではない。
エコーがあれば、厳密な聴診技術は必要ないのかもしれないし、
適応範囲が広いSSRIがあれば、厳密な鑑別診断は必要ないのかもしれない。
一番強い抗生剤をつかっておけば、鑑別診断ができなくても、
とりあえずは、切り抜けられる。
診断に手間取っている暇に、患者さんを説得して、
薬を飲んでもらった方が早いのかも知れない。
しかし考えてみてほしい。
そうしたことの結果として、どこかの良心的なお医者さんが、
重症例を引き受けているのだということを。
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精神科病棟で、哲学的な精神病理学的文章を書いている人がいた。
ノートにぎっしり。
よく分からなかったが、ハイデガー、フッサール、木村敏などを書き写しているのかなと思った。
精神の現象学とかそんな感じ。
あとで聞いたら、その人が自分で書いたというものだった。
どれもよく分からないということが私には分かっただけだった。