「意識の探求」第一章-1
意識の探求―神経科学からのアプローチ (上) (単行本)
クリストフ・コッホ (著), 土谷 尚嗣, 金井 良太
第1章
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意識研究入門
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意識の問題があるから、心脳問題(精神物質二元論、the mind-body problem)はとても難しい。しかし、意識の問題がなければ、心脳問題は全然面白くない。ところが、意識の問題は、絶望的に難しいと思われる。
トーマス・ネイジェル(Thomas Nagel)「コウモリになるとはいったいどういうことか?」より
*Nagel, T. “What is it like to be a bat?” Philosophical Rev. 83:435–450
(1974).これは懐かしい論文。しばらく机の上にあったと思う。当時は話し合う相手もいなくて、この方面では結構孤独だった。引用回数の多い論文ではないかと思う。
トーマス・マンの未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」に登場するカカック教授は、ヴェノスタ侯爵に対し、世界の創造における基本的で謎に満ちた三つの段階について述べている。第一段階ではなんらかの物質、すなわち宇宙そのものが「無」から創造された。第二段階では、生命が、無機物、すなわち、生命のないものから生まれてきた。第三段階では、有機物から意識(consciousness)および意識をもった動物、すなわち、自意識を持ち、自分自身について考えることができるような動物が誕生した。人間や、少なくとも何種類かの動物は、光を検知し、そちらに目を向け、それ以外の行動をとる時に、こういった行動や状況に伴って、光の「眩しさ」等の主観的な「感覚(feelings)」をもつ。我々は、この意識誕生という、驚嘆すべき謎を説明しなければならない。意識の問題は、いまでも科学に基づく世界観が直面している重要な難問のひとつである。
*三つの謎のうち、第二段階の、無機物から生命が誕生したことについては、完全ではないけれど、説明がつくようになってきた。これはやはりすごいことだ。
*第一段階については、全くの、謎。見たこともない。
*第三段階については、どうにか説明できないかなあと思うが、これも、謎。
*宇宙創造は、我々の身辺で見かけることではないけれど、赤ん坊がだんだん人間らしくなるところなら、みんな目撃している。意識のない有機物から意識のある有機物へ、連続した変化であり、我々のほぼ全員に起こる。宇宙の歴史に中で一回起こったことではなくて、毎日起こっていることなのだ。何とか説明できそうな気がする。
1.1 我々は何を説明すべきか?
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有史以来、我々人間は、「私たちは、一体どうやって、見たり、匂いをかいだり、自分を顧みたり、記憶を蘇らせたりしているのだろう」、という疑問を持ち続けて来た。これらの感覚はどのように生まれてくるのだろうか? 意識的な精神の働きとその物質的基盤、すなわち、脳内での電気化学的な相互作用との間には、どのような関係が成り立っているのだろうか? それが心脳問題の最も根本的で中心となる問題である。 ポテトチップスのあの塩気の効いた味、ぱりぱりっとした食感。高山に登ったときに見えるあの空の濃青色。最後の安全な足場から数メートル上の絶壁で、わずかな手がかりにしがみついているときの、手の感触、ぶらりとした足の感覚、それらからくるスリル感。一体、これらの感覚は、どのようにして、ニューロン(神経細胞、neuron)のネットワークから生まれてくるのだろうか? こういった感覚、知覚の質感は西洋科学、哲学の伝統において、クオリア(qualia)と呼ばれてきた。クオリアとは普段我々が「意識」という語で指す事柄の中でも最も原始的な「感じ」、質感である。クオリアの種類やその強弱は、それを直接感じている本人にしか厳密にはわからないところがポイントである。数日間断水させられた人が、水を飲むことを遂に許されたとき、彼の喉の渇きのクオリアが弱まることは第三者にも想像できるが、実際の彼の喉の渇きのクオリアがどの程度かはわからない。普段あなたがコンピューター画面上にある黄色い点を見るときは、強烈な黄色いクオリアを感じるだろう。ところが、後で紹介するようなある種の錯覚が起こる条件下では、この黄色いクオリアを引き起こす同じ黄色い点も、クオリアを引き起こすのに失敗してしまう、つまり、黄色い点が消えてしまうことすらある! もちろん、錯覚がおこるような条件にさらされていない第三者の目には、同じ黄色い点はやはり黄色のクオリアを引き起こす。クオリアは脳によって生じているが、なぜ、どのように、こういったクオリアが脳から生まれてくるのか、それが問題なのである。
*離人症の一部は、クオリアの消失なのだろう。
更に問題なのが、なぜある種のクオリアには、それ特有の「感じ」があって、それ以外の「感じ」ではないのか、ということである。一体全体、何で、「赤い感じ」はあの赤い感じなのだろうか? どうしてあの「青い感じ」とは全く異なるのだろう? こういった「感じ」は、抽象的なものではないし、個人個人が勝手に決めたシンボルでもなく、人類にある程度は共通のものである。このような感覚は、生物にとって何か「意味」のあるものを表わしている。現代の哲学者たちは、ある事柄を表象する能力や、自分の外の世界にある何物かに「向かう」意識の能力、すなわち、「志向性」等の精神の能力について議論している。主観的な意識は、常に何か外界に存在するものについての意識である、ということを指して「志向性」という。例えば、あなたが赤いクオリアを持ったときには、それは外界の新鮮で美味そうなトマトに「向かう」、もしくは、トマトを「指し示す」。まるで、我々の主観である赤いクオリアからトマトへの矢印が出ているかのように。意識が外界の何かに向かう、この矢印のような働きのおかげで、主観者の内部にある表象が外界の何かに対し「意味」を持つことができるのだ。脳を構築する広大な神経の網目のようなつながり、ニューラル・ネットの電気的な活動から,「意味」がどのように生じてくるのかという謎は、非常にミステリアスである。ニューラル・ネットの構造や、それらの接続パターンが、確実に役割を果たすというのは分かっている。しかし、具体的にそれらがどうやって「意味」と「志向性」を生み出すのだろうか?
*「志向性」は現象学でよく言われる言葉だけれど、ここで何か関係があるかな?
人間および多くの動物が、状況や行動に応じてクオリアを経験するのはどうしてなのだろうか? なぜ人間は、全く無意識のままに生きて、子供を生んで、育てていかないのだろうか? そんな無意識のままの人生なんて、まるで、夢中歩行して人生を送るようなもので、主観的には、生きていると言えたものではないだろう。それでは、進化論的に言って、意識が存在する理由はなんだろうか? 人間という種の存続に、他人とわかちあうことのできないクオリアはどのような利点をもたらしたのだろうか?
*主観的クオリア体験がなくても、多分、立派に生きていけるでしょうね。
ハイチに伝わる伝説に、死者の蘇り、ゾンビが登場する。ゾンビは呪術師の魔力によって、操るものの意のままに動くという。哲学の世界では、「ゾンビ」というのは架空の存在として思考実験に用いられている。外見上の立ち居振る舞いは、全く普通の人と変わらないが、意識、感覚および感情が完全に欠けたもの、それが哲学用語としての「ゾンビ」である。哲学者が思考実験をするときには、全く無意識であるにもかかわらず、あたかも普通の人間のような経験があると嘘をつくように企んでいるゾンビを考えることもある。
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そのようなゾンビを想像するのは非常に難かしいが、その事実こそが、まさに、意識が日常生活に欠かせない重要なものだということを示している。かのルネ・デカルト(Rene Descartes)も自己の存在証明時に言ったではないか。「私は、『私に意識がある』ことを疑いなく確信できる」と。我々には常に意識があるわけではない。夢を見ていない睡眠中、全身麻酔にかかっている間はもちろん無意識だ。だが、本を読んだり、喋ったり、ロッククライミングをしたり、考えたり、議論したり、単に座ってぼーっと景色の美しさに見とれたりする時などは、たいてい我々には意識がある。
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脳の電気化学的な活動のほとんどは意識にのぼらない。この事実を認めると、単に、意識がなぜ脳から生まれてくるかという漠然とした問題が、一歩踏み込んだものになり、なぜある特定の電気化学活動だけが意識を生み出し、他の活動は無意識に処理されてしまうのか、というより具体的な疑問が湧いてくる。ものすごい数のニューロンの猛烈な活動が起こったからといって、いつも、感覚を覚えたり、何かのエピソードを思い出したりするわけではない。このことは電気生理学による実験によって証明されている。例えば、反射的に動くときなどがそうである。なんとなく、ぱっと足を振り払う。そのあとで、自分の足の上を、虫が這っていたことにに意識的に気がつくなんてこともある。つまり、視界に入った虫を発見し、そして勢いよく足を動かすという、高度な計算が無意識のうちに脳内で、まるで反射のように行われることがあるのだ。あるいは、毒蜘蛛や銃などの生命を脅かす危険のあるものが視界に入るだけで、たとえそれらを意識しなくても、身体が先に反応することもある。それらの危険物に対する恐怖が意識にのぼる前に、手のひらは汗ばみ、心臓の脈拍および血圧は増加し、アドレナリンが放出される。蜘蛛や銃の発見だけでなく、それらが危険なものであるという分析、そしてその分析に対しての反応までもが無意識のうちになされることがあることの一例である。現在のコンピューターでも手に負えない、知覚から行動までの複雑な一連のプロセスもまた、迅速にかつ無意識に起こっている。実際、サーブを返したり、パンチをよけたり、靴ひもを結んだりといった、複雑な一連の動作は、繰り返し練習をつむことで、無意識に素早く実行できるようになる。無意識の情報処理は、精神の働きのうち非常に高次のものまでも含んでいる。大人になってからの行動が、意識的な思考や判断を超えて、幼年期の経験(多くの場合、精神的外傷、トラウマなど)によって、深いところで決定されることもある、とジーグムント・フロイト(Sigmund Freud)は主張した。高次の意志決定および創造的な行動の多くが無意識のうちに生じている(この話題は18章でより深く扱う)。毎日の生活を彩る出来事の非常に多くが意識の外で起こっている。このことは、臨床研究において見られる患者の振る舞いによって、非常に強く支持されている。神経障害を持った患者、D.Fさんの奇妙なケースを紹介しよう。彼女は、形を見たり、日常生活にありふれた物の写真を認識することができない。それにもかかわらず、驚くべきことに、ボールをキャッチすることができる。郵便受けポストの入り口のような、細い横穴の向きを水平なのか垂直なのか意識的には分からず、口では「どっち向きかわからない」と答えるのに、彼女はさも簡単に、スリットへ手紙を入れることができる。このような患者の研究によって、神経心理学者は、人間の行動の中には、まるで反射のように無意識に行われるが、大脳によって高度に制御される必要がある複雑なものがあることを突き詰めた。こういった脳を介した反射のようなものを、脳の中の「ゾンビシステム」と呼ぶ。もちろん、ゾンビシステムは一般の健康な人の脳にも存在する。これらのゾンビシステムは、視線を移したり、手を置いたりといった、決まりきった行動に限られており、通常かなり急速に作動する。ゾンビシステムが作動を開始するのに必要な状況や入力、すなわちボールがこちらに投げられたり、手紙を持ってスリットに向かったり、といった状況を意識的に思い出して作動させようとしても、それはできない。例えば、D.F.さんは、ポストに向かった後、たった二秒間目隠しされてしまうだけで、手紙を投函することができなくなってしまう。意識的には、どんな角度だったか思い出せないのだ。ゾンビシステムについては、本書の12章、13章で、もう一度詳しく扱う。
*ゾンビシステムこそが基本で、自意識はその上に付加的に形成されたものだと考えることができる。
このようなゾンビシステムが脳の中に備わっていることを知れば、「なぜ、脳は高度に専門的なゾンビシステムをたくさん集めただけのものではないのか」という疑問が湧いてくるだろう。もし我々がゾンビシステムの寄せ集めだったならば、人生は退屈なものかもしれない。しかし、たくさんのゾンビシステムが簡単に、そして、素早く働くのならば、どうして意識など必要なのだろうか? 意識には生存に役立つなんらかの機能があるのだろうか? 将来の一連の行動の予定を立てたり、その予定を吟味したりするときにこそ、色々なことに応用がきき、かつ、計画的な情報処理モードである意識が必要なのだ、という主張を14章で展開することにしよう。意識は非常に個人的なものであり、他人と共有されることはない。感覚は、直接に誰か他の人に伝えることができないので、通常、他の感覚を経験するときの様子に例えたり、それと比べたりすることによってのみ、間接的に伝えられる。たとえば、あなたがどんな赤さを感じたのかを説明しようすれば、結局は、なんらかの赤の経験、つまり、「日没の時の赤」とか、「中国の国旗のような赤」とかを持ち出すことになるだろう。出生時から盲目の人にあなたが感じた赤さを説明するのは不可能に近い。二種類の異なった経験、例えば夕焼けの赤さと中国の国旗の赤さとの、類似点や細かな相違について語ることに意義はあるが、ある一つの経験について、他の経験を持ち出さずにそれだけについて話すことは不可能である。なぜ、我々はそういった手段を持たないのかもまた、意識の理解が進めば説明されるべき事柄である。
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実はこの事実、我々が自分の体験している世界を直接他人に伝えることができないという事実を、我々の意識がどのように脳から生まれてくるかを研究するうえで、最も根本的なものとして重要視せねばならない。どのように、そして、なぜ、ある特定の意識的な感覚を支えている神経の物質的基盤(neural basis)が、それ以外の感覚を生み出したり、完全な無意識の状態をつくらないのか、この疑問に答えることが目標である。短い波長の光が青く、長い波長の光は赤く、あの青さ、あの赤さでそれぞれ全く異なる鮮やかさで感じられるように、どのようにして、それぞれの感覚に私たちが感じる独特な質感が構成されているのだろうか。また、どのようにして、自分の内部の主観的な感覚に、外界のものごとを指し示すような意味が与えられていくのか。また、なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか。どのように、また、なぜ、多くの行動は意識を伴わずに生じるのか。
*「なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか」というよりも、「感覚は個人的なものであるが、体験と神経ネットワークに共通性があるため、普遍性があり、共有できるものである。共有できない場合に、病理的現象が生じる。」と私は考えている。
1.2 どんな答えがありうるか
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17世紀中頃に、デカルトの「人間論」(Traite de l'homme)が出版されて以来、哲学者や科学者は、現在の形の心脳問題についてあれこれと考えを巡らせて来た。しかし、1980年代まで、脳科学におけるほどんどの研究は意識の問題を完全に避けてきたのである。ここ20年間でその潮流に変化が生じ、哲学者、心理学者、認知科学者、臨床医、神経科学者、さらにはエンジニアまでもが、意識について学術論文や本を多数発表するようになった。これらの本は、現在の科学的な知見を持って、意識がなぜ脳から生じるかという問題をあらためて「発見」したり、「説明」したり、意識について「再考」し直したりすることを目的としている。本のタイトルも「意識を再考する」だったりする。これらの本は、純粋な思索だけに頼ったものが多く、ニューロンの集合体である脳から意識がどのように生じてくるのかを実際に科学的に発見するためには、どのようにして真摯な研究を行っていけばいいのか、という系統的で詳細な指針を示していない。そのため、本書で述べるような、意識が脳からどう生じてくるかの謎を解くための様々な研究のアイデアには、これらの本の内容は全く役に立っていない。
*1980年代から、ここ20年で、状況が変わったと述べている。本当に変わったと思う。20年前、Thomas Nagel「コウモリになるとはいったいどういうことか?」が提出され、エックルズとポパーが共著で「三世界」の構図を示し、一方で、唯物論者たちは、創発論でお茶を濁していたと記憶している。わたしはエックルズとポパーが好きだったが、理系の人たちには、軽蔑されただけだった。
フランシス・クリック(Francis Crick)と私がとるアプローチを紹介する前に、これまでの哲学者が考えてきた、これらの問題へのもっともらしい答えを、ざっと見渡してみよう。ただし、ここではあまり、深入りせず、それぞれの立場の単なるスケッチだけしか提供しないということを心に留めておいていただきたい。
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意識は不死の魂に依存する西洋哲学の父、プラトン(Plato)は、人間というものを、「永遠不死の魂が、必ず死の運命にある肉体に閉じ込められた存在である」、と論じたことで広く知られている。プラトンはまた、イデア(idea)は、我々の肉体が存在しているこの世界とは別の、イデアだけの世界に存在し、それらは永遠であるとも言った。このようなプラトンの考え方(Platonic views)は、後に、新約聖書に組み込まれ、古典的ローマカトリックの魂(soul)についての教えの基となっている。意識の根源には物質世界には存在しない不死の魂がある、という信仰は、数多くの宗教に広く共有されている。
*これが一番安定した考え方なんだろう。何と言っても強力。
近代に入ると、デカルトが、「延長するもの」(res extensa)、例えば、物質としての実体を持った神経や筋肉を動かす動物精気(animal spirit)、すなわち現代科学では明らかになっている神経や筋肉の電気化学的な活動のこと、と「思惟するもの」(res cogitans)、すなわち、思考する実体、とに区別を付けた。デカルトは、res cogitans は人間に特有のもので、それが意識になるのだと唱えた。デカルトがこのように全ての存在をこのふたつのカテゴリーに分類したことが、まさに精神物質二元論(dualism)とよばれるものである。それほど厳格でない二元論は、すでにアリストテレス(Aristotle)や、トーマス・アクゥィナス(Thomas Aquinas)によって提唱されていた。現在の最も有名な二元論支援者は、哲学者カール・ポパー(Karl Popper) と、ノーベル賞を受賞した神経生理学者、ジョン・エックルス(John Eccles)だろう。
*20年前、「エックルズ先生も、歳をとって、死後のことを考えると、無神論的唯物論ではきついのだろう、歳をとればそんなものだ」、といった感じの文章さえあった。ポパーは三世界論だし、その中の意識経験についても、単純に精神世界のことを言っているのではないように思う。極端に言えば、物質世界と脳・意識と文化の三者が共進化する世界観といえばいいのだろうか。脳と意識を特に区別しているとも思えなかったけれど、私の考え違いか。物質世界と、個人精神内界と、人類が共有する文化の総体、この三者の関係といった感じのことだったように記憶している。脳と心の問題についてはどのように言っていただろうか?
二元論は、論理上一貫している一方、原理主義的で言葉どおりの二元論は、科学的な見解からすると不満が残る。特に面倒なのは、魂と脳とがどのように相互に影響をあっているのかという問題である。どうやって、どこで、その相互作用は起こるのか。おそらく、この相互作用は物理学の法則と両立していなければならないだろう。ところが、もしそのような相互作用を仮定すると、魂と脳の間でのエネルギーの交換がなくてはならないことになる。さらにそのメカニズムも説明されねばならない。これらは非常に問題である。また、二元論によると、魂の一時的な宿主である肉体が亡んだとき、すなわち、脳が機能を停止したとき、一体、何がこの不気味な存在である魂に起こるのだろうか。幽霊のように、超空間を漂うとでもいうのだろうか?
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精神の本質としての魂という概念は、魂が不死であって、魂の存在が脳に全く依存しないと仮定すれば、矛盾が生じることはない。すなわち、魂とは、いかなる科学的方法によっても検出することのできない、ギルバート・ライルのいわゆる「機械中のゴースト」、とみなすのである。つまり、魂は科学の扱う範囲外であると考えてしまうということである。
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科学的な手段では意識を理解することは不可能だ伝統的な哲学的態度に、ミステリアン(Mysterian)と呼ばれる流派がある。ミステリアンは、意識の問題は複雑すぎて人間の理解の範疇を越えると主張する。この流派には二種類ある。一方は、「どんな認知システムもそのシステム内部の状態を完全に理解することができない。同じように、我々の脳は、脳内部から生じる意識の状態や仕組みは理解できないのだ」という理論的な主張である。もう一方は、現実的ではあるが、悲観的な主張である。愚かな人類には、知性に限界があり、既存の概念を大きく変更することはできない。類人猿が一般相対性理論を理解できないように、意識がなぜ脳から生じるかという問題は、人類にはとても及ばない問題なのだ、というものである。
*脳は脳を理解できるかという命題がある。
*一個のニューロンが、一個のニューロンを「理解」するとすれば、あるいは、一個のシナプスの状態を、一個のシナプスで「理解」するとすれば、結局、そっくり同じものができるだけで、「理解」とはいえないだろう。脳よりももう一次元、複雑さの程度の高次なものでなければ、脳を理解できないだろうとするもの。
*なんとなく分かるけれど、でも、脳は、そのように理解しているのではなくて、抽象化したり、輪郭をつかんだりして、圧縮して理解しているのだ。海を構成する分子のすべてをひとつひとつ理解しているわけではないが、H2Oがいっぱいあって、ナトリウムと、……なんていう具合に「理解」するので、そのように、「情報圧縮」しても理解はできるのだと思う。
また別の哲学者は、「ただの物質に過ぎない脳が、意識をどのように生じさせることができるか、全く予想もつかない。ゆえに、単なる物質である脳の中に、意識が生じてくるメカニズムを科学的に研究しようとしても、絶対に失敗するに違いない」と断言している。こういった主張は、彼等の無知を晒しているにすぎない。現時点で、脳と意識にはつながりがあるということを強く支持する議論がないからといって、つながりがないことを証明することにはならない。もちろん、これらの批判に答えるためには、科学こそが、このつながりを支持するような適切な概念や証拠を提出していかねばならないのだが。
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将来、意識を生み出す脳の仕組みを解明することは、単に技術的に難しいだけでなく、原理的に不可能だと判明することがあるかもしれないが、現時点ではそのような結論を出すのは時期尚早というものだろう。神経科学は、非常に若い科学分野である。息をのむような速度で、常により洗練された方法によって、新しい知識が蓄積してきている。神経科学の発展が翳りを見せる前に、そんなに悲観的なってしまう必要はない。意識がいかに脳から生まれてくるかを、ただ単にある学者が理解できないからといって、この問題が人類の知性の限界を越えているというわけではない!
*今のところ、原理的に不可能だと証明されてはいない。可能だと証明されてもいない。
意識は錯覚である
脳と意識の問題があまりにも難しいので、哲学者の他の流派には、一般には理解しがたいことだが、なんと、その問題自体を否定しまうものもある。この種の意識問題を否定してしまう哲学流派は、行動主義(behaviorism)に起源を持つ。現代の哲学者の中では、タフツ大学(Tufts University)の哲学者ダニエル・デネット(Daniel Dennett)が最も影響力を持っている。『解明された意識(邦題)』(Conscoiusness Explained)で、デネットは、私たちが普段持っている感覚、クオリアは、手のこんだイリュージョン、幻想、なのであると論じている。感覚入力システムと行動出力システムとが共謀し、人類の社会構造と脳の学習がその幻想をサポートしているという。デネットは、人々が、自分に意識があると言い張っていること、その事実をまず認めている。そのうえで、「私には意識がある」と人々がずっと信じ込んでいる事実には説明が必要だ、ということも認めている。但し、デネットによると、この信仰は「間違っている」。その一方で、どのように脳から生じるのか非常に理解が難しいクオリアを、どれだけ鮮明に人々が主観的に感じようとも、それは幻想なのだとデネットは言い切ってしまう。彼は、意識を研究しようとする通常のやり方は、非常に間違っていると考えている。
*わたしはこの流派に近い。
*デネットがイリュージョンと言うとき、何を意味しているのか、吟味しなければならない。吟味してみれば、納得する部分があると思う。
通常意識がどうやって脳から生じるかを考える場合、意識を持つ主体の側からみた、主観的な意識が問題になっている。この主観的な意識が、なぜその人だけにしか経験されないのか等、主観者の側からの疑問に対しての説明をしようとするのが通常のアプローチだ。このような説明の方法を、意識のファースト・パーソン・アカウント(主観者説明、First-person account)と呼ぶ。それに対して、デネットは、そのような説明ではなくて、意識を第三者の目で見たときに説明されるべき事柄(例えば、意識を持っている種はそうでない種に比べ、生存に有利な点はあるのか等)だけをターゲットにした、サード・パーソン・アカウント(第三者説明、 Third-person account)を目標にするべきだと主張する。「ある波長の光が網膜に影響を与え、被験者に『赤い光が見えた!』と叫ばせた。」という叙述は、第三者の視点でなされた客観的な叙述である。物理法則、化学法則から説きおこして、なぜ、脳の中のニューロンという単なる物質が起こす電気化学的活動が最終的に主観的な意識に至るのかまでを順を追って説明することはあまりに無謀に見える。そのため、最後の部分、すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、科学的に存在しないものは説明できないという立場をとる。
*「すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、科学的に存在しないものは説明できないという立場をとる。」という解説は正しいのか?
デネットによると、歯が痛いというのは、しかめっつらをしてこらえる、といった、ある行動をとること、もしくは、痛い側の口で噛まないようにしよう、とか、逃げて苦痛が去るまで隠れていたい、といった、ある行動をとりたいという欲求をもっている状態だと考える。これらの、デネットが「反応的な傾向(reactive dispositions)」と呼ぶ、外部から観察され、研究しやすいものは、現実に存在するものであり、それがどうして起こったのか、その後何が起こるのかについては、説明がなされなければならない。しかし、苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であって、その捉えがたい感覚は存在しないとする。
*「苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であって、その捉えがたい感覚は存在しない」というように、「主観的な意識」「主観的な経験」を消去してしまったら、不思議は消えてしまう。やはりここをきちんと説明したいと思うのは、著者に賛成。
日常生活において主観的な感情が中心的位置を占めていることを考えると、クオリアや感情が錯覚であると結論づけるには、相当量の実際的な証拠、科学研究を必要とする。哲学的な議論は、論理的な分析と内省(introspection)、すなわち 自分の内部を真剣に見つめることに基づいており、科学的方法に比べ 現実世界の様々な問題を取り扱うには全く力不足である。哲学的方法では、微妙な論点を決定的に論じ、定量的に決着をつけることはできない。哲学的な方法論が、最も効果を発揮するのは、問いをたてるときである。悲しいかな、長い歴史を持った哲学は、自らがたてた問いに答えたためしがほとんどないのである。私が本書でとる中心的なアプローチは、ファースト・パーソン・アカウントを、乱暴ではあるけれども、人生における明らかな事実と見なして、それを説明しようと努力するというものである。
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意識の解明には根本的に新しい法則が必要とされる
一部の科学者たちは、脳に関しての更なる事実の積み上げや原理の発見ではなく、新しい科学法則こそが、意識にまつわる謎を解明するのに必要であると主張している。オックスフォード大学のロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)は、名著『皇帝の新しい心(邦題)(The Emperor’ s New Mind )』の中で、「現代の物理学では、数学者の直観(大きくは一般の人々の直感も含む)がどのように生じるのかを全く説明することができない」と論じている。近い将来のうちに公式化が期待されている「量子重力論」がこの問題を解く鍵であり、どんなチューリング式 (Turing)ディジタルコンピューターもこなすことのできないプロセス、数学者の直観が、人間の意識によって、どのようにして生み出されてくるかが、「量子重力論」によって説明されるだろう、とペンローズは信じている。アリゾナ大学ツーソン校の麻酔専門医スチュアート・ハメロフ(Stuart Hameroff)とペンローズは、体中すべての細胞にある、微小管(マイクロチューブル、 microtubles)に注目している。微小管は集まると、外部の酵素の働きなどを必要とせずに、勝手に組みあがって大きくなるという性質がある。微小管が多数のニューロンをつないで、量子の共鳴状態(coherent quantum states)をつくるのに中心的な役割を担うのだ、とハメロフとペンローズは提唱している。
*ロジャー・ペンローズの本も、分厚い本で、読み始めるまで、億劫、そしてこの手の本は、大部分が既知の基礎的な事柄のⅢ確認になっているので、その点でも退屈。ペンローズ氏の確信は、とても同意できるものではない。
*おおむね、学者仲間から見放された時点で、一般向けの本を書いて、さらに失望させてしまうものである。
数学者は一体どこまで非計算論的な真実を直観的に理解できるのかという問題や、コンピューターを用いて数学者の直観を実現できるのかということに関し、ペンローズは、活発な討論を巻き起こした。しかし一方で、高度に秩序だった物質である脳の中で、ある種の動物の脳には少なくとも意識が生じてくるのはなぜか、という問題に量子重力(quantum gravity)がどう関わってくるのか、はっきりしたことを何も説明していない。確かに、意識と量子重力はそれぞれが不可解な側面を持っている。しかしだからと言って、片方がもう片方の原因なのだ、と結論付けるのは、恣意的で根拠がない。巨視的な量子力学的効果の事例が、脳内において一例も報告されていない現在、これ以上彼らの考えを追求することに意味はないと思われる。
*そうですね。トンデモ系。