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ユルゲン・ハーバマス 自由と決定論―自由意志は幻想か?

参考文献を眺めていたら、ベンジャミン・リベットの論文がいくつかあった。
懐かしくて検索したら、こんなのが見つかった。

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The 2004 Kyoto Prize Workshop: Symposium of Arts and Philosophy Category
〈受賞者講演要旨〉
ユルゲン・ハーバマス 教授
フランクフルト大学 名誉教授
自由と決定論―自由意志は幻想か?
近年、神経生物学の新たな展開により、決定論の立場から人間行動を説明する是非をめぐる伝統的論争が、再燃している。きっかけは、ベンジャミン・リベットとその追随者たちによって行われた、よく知られた実験である。そこで明らかにされたのは、被験者がなんらかの行動を起こす際、いくつもある選択肢の中から、自発的にある特定の動き方を選んだのだと本人が意識するよりも前に、すでにその動き方のための特性が神経レベルで観察できるということである。著名な決定論者たちはこの結果を―リベット自身による解釈とは対照的に―、我々が自らを自由意志を持った存在だと自認することもまた幻想に過ぎない、という主張を裏付けるものとして用いているのである。
このペーパーでは、こうした主張に対する反論として主なものを三つ取り上げ、概説する。
(1) 自由意志を過度に狭い意味で概念化することは、実験の設計を不完全なものにし、それによって、まちがった操作化をもたらすと考えられる。また、不完全な実験設計は、実験結果の包括的一般化を不可能にする。
(2) 還元主義的解釈では、それぞれ一人称と三人称に定位した言語ゲームをする唯心論者と経験論者の間に広がる溝の意味するところが、十分に考慮されない。
(3) 生物進化の観点から見るなら、自らの意志でこのようにも、あのようにも自由に行為できる、という行為者の自己理解が、人間の行動の説明にいかなる因果的役割も果たさないということの方が、かえって奇妙なことに思われる。
論争のテーマをより厳密に定義するなら、脳と文化の(おそらく双方向の)相互作用に注目せざるを得なくなる。この場合、「文化」とは、規則に支配された命題内容の蓄積と象徴的保存を意味している。また発表では最後に、(自由という現象の存在可能性を認める)認識論的二元論と、(一貫した宇宙観を追求する我々を満足させてくれる)存在論的一元論を結びつけることを提案したい。すなわち、人間の認知が、「観察者」と「当事者」という二つの相互補完的視点の不可避的な相関関係に依拠するということを、進化にもとづいて説明することができれば、柔軟な、つまり科学主義的ではない自然主義を確保することができるということである。我々は社会化された諸個人という生物種である以上、我々が観察可能な出来事から成る客観的世界とのかかわり方を学ぶことができるのも、ただ、共有された象徴的意味と根拠から成る「公共空間」の中でコミュニケーションすることを通して、同時にお互いから学び取ることによってのみである。世界と人間相互の両方に同時に向けられているこの二重の視界の背後にさかのぼることは、科学者としての我々にすらできないとしても、さまざまな対象から成る世界を客観化して見ることができるのは間主観的に共有された生活世界の内部からのみであり、またそれを可能にしている文化的生活形式を生み出したのも、この同じ自然であるということは、我々は依然として認識しうるのである。

Professor Jürgen Habermas
Professor Emeritus, University of Frankfurt
Freedom and Determinism ― Is Human ‘Freedom of Will’ an Illusion?
Recent developments in neurobiology have revived an old debate about deterministic accounts of human action. It takes off from the well-known experiments of Benjamin Libet and his followers. The experiments prove that an observable neurological disposition to act in a certain way precedes the test person’s awareness of having voluntarily chosen between alternative ways of action. Contrary to Libet’s own interpretation, prominent proponents of determinism defend the conclusion that our self-attributed freedom is an illusion.
The paper summarizes three of the main counterarguments:
(1) An overly narrow conceptualisation of freedom is assumed to lead to a misleading operationalization in terms of an inadequate experimental design, that does not allow a sweeping generalization of the findings.
(2) The reductionist interpretation does not pay due attention to the implications of the gap between the mentalist and the empiricist language games, attached to a first and third person perspective respectively.
(3) From the point of view of biological evolution, it were a rather mysterious fact, if the self-understanding of actors as being free to act in one way or the other would not play any causal role in the explanation human behaviour.
A sharper definition of the controversial issue directs attention to the (supposedly two way) interaction between brain and culture, while culture is conceived as the storage and symbolic enshrinement of rule-governed propositional contents. The paper finally suggests a combination of epistemological dualism (which leaves room for the phenomenon of freedom) with ontological monism (which satisfies our quest for a coherent view of the universe). A soft, that is non-scientistic naturalism can be secured by an evolutionary explanation of the fact, that human cognition depends on the unavoidable interrelation of two complementary perspectives, that of an observer and that of a participant. A species of socialized individuals can only learn how to cope with the objective world of observable events by simultaneously learning from one another, through communication within the “public space” of shared symbolic meanings and reasons. Even if we, as scientists, were permanently impeded in our attempt to “get behind” this bifurcated view directed simultaneously at both, the world and one another, we can still know that it is just one and the same nature from which there has evolved a cultural form of life which permits an objectivating view at the world of objects only from within an intersubjectively shared life-world.
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これはこれで、大変な含蓄のある発言なのであるが、「ベンジャミン・リベットとその追随者たち」の仕事を軽く引用して、さらに、「著名な決定論者たちはこの結果をリベット自身による解釈とは対照的に、我々が自らを自由意志を持った存在だと自認することもまた幻想に過ぎない、という主張を裏付けるものとして用いているのである。」として、決定論に対しての反論を展開しているのだが、論点の三つはどれもすばらしく難解で、リベット先生の提示した実験の説得力に遠く及ばないものと私には思われる。
ハーバマスは「史的唯物論の再構成」なんていうマルクス的な本があり、一方で、多方面に関しての著作があるエライ人だと思っているが、「自由意志」に関しては、こんなことになってしまう。
これって、「天動説」じゃないですか?



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