うつ病の社会文化的試論-特に「ディスチミア親和型うつ病」について-
あの有名な、樽味氏の「ディスチミア親和型うつ病」のお話。分かりやすくていいですね。
原著論文日社精医誌,13:129-136,2005
うつ病の社会文化的試論-特に「ディスチミア親和型うつ病」について-
樽味伸,神庭重信
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抄録:わが国のうつ病の気質的特徴として,几帳面で秩序を愛し,他者配慮的である点が指摘されてきた。しかし昨今の精神科臨床においては,比較的若年者を中心に上記の特徴に合致しない一群が多く現れ始めている。彼らはそれほど規範的ではなく,むしろ規範に閉じこめられることを嫌い、「仕事熱心」という時期が見られないまま,常態的にやる気のなさを訴えてうつ病を呈する。本稿では彼らを「ディスチミア親和型うつ病」と呼び,従来のメランコリー親和的なうつ病と対比させ,その臨床場面での特徴を整理した。ディスチミア親和型では,抑制よりも倦怠が強く,罪業感とともに疲弊するよりも,漠然とした万能感を保持したまま回避的行動をとる印象がある。本稿では,特に抑うつ症状としての罪業感の変容に着目し,そこに社会文化的に受け継がれてきた役割意識の希薄化と,それに代わって構築された保護的環境での個人主義が影響している可能性を指摘した。
日社精医誌13:129-136,2005
索引用語:ディスチミア親和型うつ病,メランコリー親和型うつ病,罪業感,役割意識
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はじめに
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わが国におけるうつ病に関しては,下田が言及した執着気質,それに近いところでTellenbachのメランコリー性格の影響がこれまで言及されてきた。
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几帳面,仕事熱心,過剰に規範的で秩序を愛し,他者配慮的であるとされるこの気質,性格は,日本人の自己規定に近く,また確かに,わが国のうつ病者の一側面を言い当てているように思われる。
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しかし昨今の,すそ野の広がった日本の精神科一般臨床においては,上記の特徴に合致する一群だけでなく,そうではない群が多く現れ始めたように思われる。
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すなわち,メランコリー性格に代表されるような,几帳面で配慮的であるがゆえに疲弊,消耗してうつ病に陥る人々と,もう一群:もともとそれほど規範的ではをくむしろ規範に閉じこめられることを嫌い、「仕事熱心」という時期が見られないまま常態的にやる気のなさを訴えてうつ病を呈する人々である。後者はより若年層に見られるような印象があり,自責や悲哀よりも,輪郭のはっきりしない抑うつと倦怠を呈する。
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ここで前者を「メランコリア親和型」,後者を「ディスチミア親和型」と呼ぶこととし,その臨床面での特徴を抜き出してみる。
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症例呈示
以下に,両病型の典型像を症例呈示の形で略述する。なお,プライバシー保護の観点から,個人を特定できないように変更を加えている。
症例1:メランコリア親和型,45歳男性
【主訴】不眠,意欲の低下
【家族歴】特記すべきことなし。
【既往歴】これまで精神医学的疾患を指摘されたことはない。
【生活史】もともと真面目な性格で柔道に打ち込みつつ文武両道を目指していたという。大学卒業後,高校の体育教師をしている。生徒指導にも携わり,親身になってくれる教師として人望も厚かった。柔道師範の資格を持ち,勤務先の高校柔道部顧問および所属自治体の代表選手の指導をしていた。既婚,子どもが3人いる。異動も数回経験しているが,特にこれまで問題はなかった。
【現病歴】2003年4月,転勤のため,ある都市部の高校に赴任することになった。これまでの勤務地と異なり,そこは生徒数の多い大規模校であり,教員も生徒も「ビジネスライクで冷めている」ことにいらだつことが多かった。本人としては,休日出勤して部活の指導や研修の準備を進めるのは「教師として当然のこと」と思っていたが,他の同僚はそうではなく,自然に本人の仕事量が増えていった。2003年9月,夏の柔道大会と合宿が終了し,2学期に入ったが徐々に不眠が増強し,早朝覚醒が目立ち始めた。これではいけないと無理して出勤しても,終日ぼんやりしてしまい,気力が湧かなくなった。これでは生徒に申し訳ない,教師として不甲斐ない,このような自分では生徒指導をする資格がない,と悩み始めた。自宅でもため息が多く考え込んでいるため妻も心配するようになり,2003年10月,上記の症状を主訴に,近医総合病院精神科を受診した。DSM̃IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たし,うつ病と診断された。
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症例2:ディスチミア親和型,24歳男性
【主訴】やる気が出ない
【家族歴】特記すべきことなし。
【既往歴】これまで精神医学的疾患を指摘されたことはない。
【生活史】長男,姉が1人いる。父親は会社員,母親は専業主婦。中学,高校と特に問題となるようなことはなかったが,嫌いな教師の科目はわざと勉強しないといったことがあったという。大学ではサークル活動とアルバイトを「人並みに」こなしていた。就職活動にはそれほど熱心ではなく,公務員を目指した。大学を卒業後,1年間は公務員試験対策として専門学校に通い,「たまたま受けたら合格した」地方都市の役所に23歳から勤務している。
【現病歴】採用後配属された職場では,仕事は特に嫌ではないが,あまり興味も持てないという。ただ「うるさい上司がいて顔を見るのが嫌だったjので,時々欠勤はしていたとのことである。ただし憂うつで出勤できなかったわけではなく,欠勤中はパチンコに行ったり映画を見に行ったり買い物したりしていた。2002年6月,働き始めて1年が経ち,職場の同僚女性と恋愛結婚した。2003年5月,第1子が生まれた。仕事には相変わらずあまり身が入らず,かといって家にも居づらく,パチンコに行ったり映画を見たりしていた。育児は大変だったが,退職した妻や両家の母親が上手に切り盛りしてくれた。2003年12月,勤務態度を上司に叱責された。これまでにも数回注意はされていたが,今回は非常に厳しい口調だったという。そのあと「体調不良なので」と職場を早退した。本人によれば,その日から夜眠れなくなったという。その後はきちんと出勤したが,職場ではやる気にならず意欲が湧かずイライラし,忘年会や新年会などの職場の集まりにも出る気がしなくなった。パチンコをするときに少し元気は出るが,家に帰ると「おもしろくなくて」再び暗く沈んでしまう。そのため近医精神科クリニックを上記の主訴で受診。DSM-IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たし,うつ病と診断された。その場で本人は診断書を希望した。ちなみに,回避性人格障害,分裂病質人格障害および自己愛性人格障害の診断基準は満たしていない。また同席した妻の情報では,早退時の「体調不良」とは異なり,今回の症候に関して特に詐病を疑わせるような所見はなかった。
注1)「ディスチミア親和型」がDSM̃IVのdysthymicdisorderをそのまま指しているわけではない。dysthymic disorderは「大うっ病性エピソードを欠き,少なくとも2年の罹病期間が存在する」ことが前提とされているが,本論で言及するrディスチミア親和型」はもう少し対象範囲は広く,主に治療初期の抑うつ症状における現象面の特徴を指している。
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表1 メランコリア親和型うつ病およびディスチミア親和型うつ病の対比
メランコリア親和型
年齢層……中高年層
関連する気質……執着気質(下田)、メランコリー性格(Tellenbach)
病前性格……社会的役割・規範への愛着、規範に対して好意的で同一化、秩序を愛し,配慮的で几帳面、基本的に仕事熱心
症候学的特徴……焦燥と抑制、疲弊と罪業感(申し訳なさの表明)、完遂しかねない“熟慮しだ’自殺企図
治療関係と経過……初期には「うつ病」の診断に抵抗する、その後は,「うつ病」の経験から新たな認知、「無理しない生き方」を身につけ,新たな役割意識となりうる
薬物への反応……多くは良好(病み終える)
認知と行動特性……疾病による行動変化が明らか「課長としての私」から「うつを経験した課長としての私」へ(新たな役割意識の獲得)
予後と環境変化……休養と服薬で全般に軽快しやすい場・環境の変化は両価的である(時に自責的となる)
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ディスチミア親和型
青年層
studentapathy(Walters)
退却傾向(笠原)と無気力
自己自身(役割ぬき)への愛着
規範に対して「ストレス」であると抵抗する
秩序への否定的感情と漠然とした万能感
もともと仕事熱心ではない
不全感と倦怠
回避と他罰的感情(他者への非難)
衝動的な自傷,一方で“軽やかな”自殺企図
初期から「うつ病」の診断に協力的
その後も「うつ症状」の存在確認に終始しがちとなり「うつの文脈」からの離脱が困難,慢性化
多くは部分的効果にとどまる(病み終えない)
どこまでが「生き方」でどこからが「症状経過」か不分明
「(単なる)私」から「うつの私」で固着し,新たな文脈が形成されにくい
休養と服薬のみではしばしば慢性化する
置かれた場・環境の変化で急速に改善することがある
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病型の概括
わが国の「うつ病」の病前性格についてはこれまで,冒頭で記したようにメランコリー性格が特徴であるとされてきた。確かに,中年期以降の患者では「メランコリア親和型」が多くを占める。しかし一方,より若年層(10代から30代)を中心に,この「ディスチミア親和型」に出会う頻度が増加しているように思われる。両病型についての特徴は,表1にまとめた。「ディスチミア親和型」の特徴は,1970年代に指摘されたような退却神経症,あるいは広瀬の逃避型抑うつ引こ近い。しかし,そこで指摘されていた「高学歴の男性に多い」といった特徴は,現在においては目立たないように思われる。むしろこの症候が汎化してしまい,男女比や教育年数は偏りを消失させているような印象がある。この汎化は,生物学的な要因よりも,社会文化的変容による部分が大きいのではないかと思われるが,その点について次項において現時点での試論を呈示する。阿部らの未熟型うつ病については,その発症年齢や性格傾向,依存性と攻撃性の問題など,重なる点が多い。ただし「未熟型」の特徴のひとつとされる「(入院後の)軽躁状態」については,われわれの病型からはまだ明らかではなく,さらに検討の余地があると考える。したがって,「未熟型」の背景とされる双極性スペクトラムに「ディスチミア親和型」を含めることは,現時点では留保したい。少なくとも,われわれの「ディスチミア親和型」が一般精神科外来レベルを中心としているのに対し,阿部らの論では,より重症のレペルに力点が置かれていることは推察できる。
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なお「ディスチミア親和型」において,なんらかの人格障害の存在を想定しうるほどには,彼らの性格的な偏りは強くはない。もちろん場合によっては自己愛的な性格傾向を指摘しうる例もあるが,少なくとも診断基準を満たしうるほどには,病理性は際たっていない。自己愛的側面については,次項後半に触れることになる。
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考察
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本項では,うつ病の代表的な症候である罪業感に着目し,その母体となる「役割意識」の社会文化的変容を追う。その上で,筆者らが仮定した2病型における罪業感の現れの変化を記述する。
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1.役割意識の変容
ここで「役割意識」とは,「○○として××せねばならない」という意識を指し,自己規範とほぽ同義のものとして使用している。図1に示したように,おおまかに5種の役割意識を想定している。これは社会の成員すべてが,なんらかの形で担ってきた文化要因であり,図のような階層構造をとると仮定している。
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図1 役割意識の階層構造
①職業的役割意識:「課長として」「教師として」「○○に勤めている以上」「これが私の仕事だから」②家族的役割意識:「長男(長女)として」「親として」「家のため」
③地域的役割意識:「先輩として」「故郷に錦を」「地域のために」
④宗教的役割意識:「仏教の教えのもとに」「キリストの名のもとに」
⑤民族的役割意識:「日本国民としてJ「アジア人として」図1役割意識の階層構造
上記の役割意識は,わが国において社会の成員が,さまざまな形で担ってきた文化要因である。役割を果たせない場合,罪業感として析出する要素でもある。わが国では,少なくとも1950年以降は④と⑤は希薄であった可能性が高く,もっぱら①~③によって保たれていたと思われる。ちなみに⑤民族的役割意識は一時的に高揚するが1945年の敗戦によって希薄化した。④宗教的役割意識はそれ以前から希薄であった。
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この役割意識は,なんらかの事由で社仝機能が低下し役割を果たせない場合,罪業感として析出する要素であるように思われる。ちなみに②~⑤は,歴史的文化的に構成され伝達されてきた持続的因子であるのに対し(⑤が最も持続時間が長く,②は短い),①は社会・経済的に構築されるー過性の要因にすぎない(例えば退職すれば失われる)。
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わが国における特殊性として,最基底層の⑤および④は,少なくとも20世紀後半においてすでに非常に脆弱な状態を露呈してきたと考えられる。背景には,海に囲まれた地理的特殊性,明治政府成立後の神仏合祀と第二次世界大戦による敗戦,その後の急激な社会変動の影響があげられる。
さらに図2に示したように,1950年代から図1③の地域的役割意識は徐々に衰退し,一時的に「県人会」として都市で再生をみるも,その後再び壊滅する。また同②の家族的役割意識も,核家族化の問題に限らず,父性の弱体化など家族内ヒエラルキーの解体などにより,特に都心部において1980年代までに希薄化してきたように思われる。したがって,わが国における役割意識は,①の職業的役割意識が唯一,一貫して1990年前後までわが国で存続しえたのではないだろうか。
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しかし,その①の母体となるべき経済的成長がプラトーに達し,次第に衰えるにつれて,1990年代あたりから,その役割意識と自己規範も崩れ始めている。また家庭においては,家族内モラトリアムとでもいうべき保護の延長から,子の社会的出立はなし崩し的に遅れているのが実状であろう。社会の競争原理を良くも悪くも体現していだ“会社人間”および“教育ママ”はすべて死語と化し,平坦な無風空間が存在するに過ぎない。家庭内で次代の骨格を構成したのは,「個」の意識,「個」の尊重である。しかしそれはかなり脆弱なものであって,その「個」に当然付随しているべき「自己責任」「自己規範」が巧妙に抜け落ちたままであるように思われる。
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注2)ここではモラトリアムの語を,本来の“猶予期間゛という意味で使用している。「社会に出るべき年齢であるにもかかわらず,家族内で養育され,しかもそれが大きな齟齬をきたさないまま家族内で是認されている状態」といった状態を指す。積極的ではないか消極的に容認しているという意味では「消極的過保護」とさえいいうるかもしれない。
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2.不甲斐なさとしての罪業感
宗教的背景をなす“神”の存在の意識が薄いわが国では,おそらく症状としての罪業感は,図1に示した①~̃③を母体としてきたように思われる。わが国の抑うつで一般的な罪業感は,例えば父親として申し訳ない,課長として申し訳ない,そのような働きができない,といった表明となる。
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「メランコリア親和型」が呈する罪業感は,社仝的役割・地位・役職に付随した規範意識が構築した「不甲斐ない」「申し訳ない」という表明である。それは実存的に罪の意識に苛まれるのではなく,「課長に昇進したのに,この状態では不甲斐ない」「部下に申し訳ない」という,おもに社会面の役割に関する罪の意識である。世代的には,①の職業的役割意識が残存している世代が多い印象がある。
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一方,「ディスチミア親和型」を構成する若い世代では,社会的役割への同一化よりも,自己自身への愛着が優先している印象がある。そして役割意識を母体とした罪業感を一般に呈しにくい。その希薄な役割意識を「うつ病」の診断に補完してもらうかのように,彼らは「うつの役割と文脈」にすぐに沿い,そこからなかなか離脱しない。「がんばれといわれたら傷つく」「うつ病を家族が理解しない」と積極的に表明するのは,主として彼らである。言語化されず葛藤にもならない「いらいら」は,一方では他罰的言動となり,他方では手首への自傷や大量服薬として現出する。彼らの手首の自傷は「いらいらするので」「すっとするために」行うのであって,罪業感に苛まれた末の自殺企図ではない。大量服薬も,最初から死ぬために飲むのではなく,「いらいらするので」酩酊感を求めて過量服用するほうが多いようである。もちろん境界型人格障害の行動化ともニュアンスを異にしている。他者との関係性の問題を基盤にした当てつけではないのである。
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この若い世代では,可能な限り競争原理が被覆された環境のもとで成長した場合が多い。前述のように,すでに競争原理の家庭内への持ち込みもなくなった世代である。その無風空間から何の備えもなく一般社会に出立したとき,実は存在していた競争原理に,彼らはいきなり直面することになる。彼らの神話であった「個の尊厳」は,彼らが期待する形ではそこには存在しない。その意味では,この世代が越えねばならないギャップとしては,この50年間で最も大きくなっているのかもしれない。それに対抗するために彼らがもっているものは,それまで試されることさえないまま保持されてきた,幼い万能感しかないのである。それを守るためには,彼らは自己愛的にならざるをえない。それはもっとも罪業感から遠い症候を構成する。
*用語は笠原先生流。
おわりに
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本稿は,臨床場面での印象をもとにした予備的試論であり,具体的なデータを欠いたままである。しかし,両者の症候学的差異について,どのような社会的要因が関与しているのか考察することには一定の意義があると思われた。
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抑うつ症状の時代的な変容に目を配っておくことは,時代に応じた診断行為の最適化につながるという意味で,価値のある臨床行為である。うつ病への脆弱性を構成する遺伝的素因と行動特性,その社仝文化的変容といった環境要因の相互作用を考えていくとき,おそらく「ディスチミア親和型」への着目は,慢性化した抑うつに関する研究の,重要な一部となっていくと思われる。
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なお,このディスチミア親和型うつ病と,退却神経症や逃避型抑うつおよび未熟型うつ病との関係については,さらに厳密な論考を要すると考えている。
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本稿は2004年10月,神戸市で開催された第18回世界社会精神医学会(同時開催:第24回日本社会精神医学会)において「うつ病の比較文化論:試論」(神庭,樽昧)として発表した内容をもとにした。
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文献1)阿部隆明,大塚公一郎,永野満,ほか:「未熟型うつ病」の臨床精神病理学的検討一構造力動諭(W.Janzarik)からみたうつ病の病前性格と臨床像.臨床精神病理16:239-248,1995
2)広瀬徹也:「逃避型抑うつ」について.(宮本忠雄編)躁うつ病の精神病理vo12,61-86,弘文堂,東京,1977
3)神庭重信,平野雅巳,大野裕:病前性格は気分障害の発症規定因子か:性格の行動遺伝学的研究.精神医学42:481-489,2000
4)笠原嘉:現代の神経症-とくに神経症性apathy(仮称)について.臨床精神医学2(2)153-162,1973
5)笠原嘉:アパシー・シンドローム:高学歴社会の青年心理.岩波書店,東京,1984
6)下田光造:精神衛生講話.同文書院,pp.85-87,東京,1957
7)Tellenbach,H.:Melancholie(木村敏訳:メランコリー).みすず書房,東京,1985
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葉酸不足でうつが多めに 遺伝子組換え食品 有機JASマーク
こんな記事にコメント。 ***** 葉酸不足でうつが多めに 食習慣調査で関連判明 | ||
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1.「うつ症状」の確認方法は妥当か。---関連判明というタイトルが不正確なんだ。最後のコメントで、「別の調査も必要」と言っているでしょう。
2.うつだったら、食事量が減るから、たったそれだけのことではないか?---他の栄養素も測定しているから大丈夫。
3.「たべたもの」と「栄養摂取」は同じではない。うつだと消化吸収も悪くなる。---そんなことは言っていないんです。いいですか、おちついて。『過去1カ月間に食べたものを詳しく聞き、各栄養成分の摂取量を算出した。同時に別の質問でうつ症状があるかどうかを調べ、摂取した各栄養素との関連を探った。』と書いてあるだけです。『その結果、葉酸の摂取が少ない人ほどうつ症状の割合が高かった。摂取が多い人では、少ない人よりうつ症状が半減していた。この傾向は女性でもうかがえたが、男性でよりはっきりしていた。』と書いてありますが、学者はこんな粗雑なことは書きません。ここは、『葉酸の摂取が少ない』は不正確だし、『うつ症状の割合が高かった』も不正確でしょう。実験もなにもしていない、ただのアンケート調査なんですよ。
因果関係は言っていないんです。ひょっとしたら、うつで葉酸摂取不足になっているのかもしれないし、ある原因Xのせいで、葉酸摂取不足とうつが両方起こっているかもしれないし。統計的に相関があったというだけで。
正確に言うと、「自己申告した食事中の葉酸量と、自己申告したうつ症状の間に負の相関が見られた」ということなんだろう。
葉酸欠乏での巨赤芽球性貧血は有名。うつと関係しているかどうか、今後の研究待ち。
4.多い少ない、割合が多いとは、どのようにして決めたものか。---統計学があります。---でも、統計学は、嘘をつくための学問だとも言われます。---望む結果が得られる検定方法を採用すればいいだけのことで。
5.JanzarikやTellnbachやAkiskalはどうなるのか?---いえいえ、うつは、人間学的な原因によっても起こり、一方、一栄養素の欠乏とも関係しているのです。---それって、哲学的。
6.そういえば、過食症で、トリプトファンを飲んでいるという患者さんがいまして、最初に吐き気がして食欲がなくなっただけで、その後はあまり効かないそうですが、思い出したのは、遺伝子組み換えトリプトファンの昭和電工。
同社によって製造されたトリプトファンからは、後になって60近くの種々の不純物が検出され、そのうちの2つは、発症を引き起こした疑いのある重要なものだった。つまり、同社が枯草菌の遺伝子を組み込んだことで予期し得ない有害物質ができ、しかも、これを濾過して取り除く精製工程を無視したことで大きな被害がもたらされたということらしい。 FADは生命工学産業の保護育成のために、真実の発表を遅らせたというスキャンダルに発展。
難しい世の中になったものです。
家に「トゥルーフード・ガイド」が届いていました。大豆はいろいろな食品に使われているのでチェックしてみたら、なかなかおもしろかった。坂本龍一と大貫 妙子が出ていて、わたしは信用してしまう。音楽関係者がなぜ遺伝子組換え食品についてコメントしているのかよく分からないが。リズムが狂ったりするのだろうか?
有機JASマークがついていれば、一応、安心らしい。
といっても、最近の嘘食品騒ぎをみれば、信用はできないけれどね。
ユルゲン・ハーバマス 自由と決定論―自由意志は幻想か?
参考文献を眺めていたら、ベンジャミン・リベットの論文がいくつかあった。
懐かしくて検索したら、こんなのが見つかった。
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The 2004 Kyoto Prize Workshop: Symposium of Arts and Philosophy Category
〈受賞者講演要旨〉
ユルゲン・ハーバマス 教授
フランクフルト大学 名誉教授
自由と決定論―自由意志は幻想か?
近年、神経生物学の新たな展開により、決定論の立場から人間行動を説明する是非をめぐる伝統的論争が、再燃している。きっかけは、ベンジャミン・リベットとその追随者たちによって行われた、よく知られた実験である。そこで明らかにされたのは、被験者がなんらかの行動を起こす際、いくつもある選択肢の中から、自発的にある特定の動き方を選んだのだと本人が意識するよりも前に、すでにその動き方のための特性が神経レベルで観察できるということである。著名な決定論者たちはこの結果を―リベット自身による解釈とは対照的に―、我々が自らを自由意志を持った存在だと自認することもまた幻想に過ぎない、という主張を裏付けるものとして用いているのである。
このペーパーでは、こうした主張に対する反論として主なものを三つ取り上げ、概説する。
(1) 自由意志を過度に狭い意味で概念化することは、実験の設計を不完全なものにし、それによって、まちがった操作化をもたらすと考えられる。また、不完全な実験設計は、実験結果の包括的一般化を不可能にする。
(2) 還元主義的解釈では、それぞれ一人称と三人称に定位した言語ゲームをする唯心論者と経験論者の間に広がる溝の意味するところが、十分に考慮されない。
(3) 生物進化の観点から見るなら、自らの意志でこのようにも、あのようにも自由に行為できる、という行為者の自己理解が、人間の行動の説明にいかなる因果的役割も果たさないということの方が、かえって奇妙なことに思われる。
論争のテーマをより厳密に定義するなら、脳と文化の(おそらく双方向の)相互作用に注目せざるを得なくなる。この場合、「文化」とは、規則に支配された命題内容の蓄積と象徴的保存を意味している。また発表では最後に、(自由という現象の存在可能性を認める)認識論的二元論と、(一貫した宇宙観を追求する我々を満足させてくれる)存在論的一元論を結びつけることを提案したい。すなわち、人間の認知が、「観察者」と「当事者」という二つの相互補完的視点の不可避的な相関関係に依拠するということを、進化にもとづいて説明することができれば、柔軟な、つまり科学主義的ではない自然主義を確保することができるということである。我々は社会化された諸個人という生物種である以上、我々が観察可能な出来事から成る客観的世界とのかかわり方を学ぶことができるのも、ただ、共有された象徴的意味と根拠から成る「公共空間」の中でコミュニケーションすることを通して、同時にお互いから学び取ることによってのみである。世界と人間相互の両方に同時に向けられているこの二重の視界の背後にさかのぼることは、科学者としての我々にすらできないとしても、さまざまな対象から成る世界を客観化して見ることができるのは間主観的に共有された生活世界の内部からのみであり、またそれを可能にしている文化的生活形式を生み出したのも、この同じ自然であるということは、我々は依然として認識しうるのである。
Professor Jürgen Habermas
Professor Emeritus, University of Frankfurt
Freedom and Determinism ― Is Human ‘Freedom of Will’ an Illusion?
Recent developments in neurobiology have revived an old debate about deterministic accounts of human action. It takes off from the well-known experiments of Benjamin Libet and his followers. The experiments prove that an observable neurological disposition to act in a certain way precedes the test person’s awareness of having voluntarily chosen between alternative ways of action. Contrary to Libet’s own interpretation, prominent proponents of determinism defend the conclusion that our self-attributed freedom is an illusion.
The paper summarizes three of the main counterarguments:
(1) An overly narrow conceptualisation of freedom is assumed to lead to a misleading operationalization in terms of an inadequate experimental design, that does not allow a sweeping generalization of the findings.
(2) The reductionist interpretation does not pay due attention to the implications of the gap between the mentalist and the empiricist language games, attached to a first and third person perspective respectively.
(3) From the point of view of biological evolution, it were a rather mysterious fact, if the self-understanding of actors as being free to act in one way or the other would not play any causal role in the explanation human behaviour.
A sharper definition of the controversial issue directs attention to the (supposedly two way) interaction between brain and culture, while culture is conceived as the storage and symbolic enshrinement of rule-governed propositional contents. The paper finally suggests a combination of epistemological dualism (which leaves room for the phenomenon of freedom) with ontological monism (which satisfies our quest for a coherent view of the universe). A soft, that is non-scientistic naturalism can be secured by an evolutionary explanation of the fact, that human cognition depends on the unavoidable interrelation of two complementary perspectives, that of an observer and that of a participant. A species of socialized individuals can only learn how to cope with the objective world of observable events by simultaneously learning from one another, through communication within the “public space” of shared symbolic meanings and reasons. Even if we, as scientists, were permanently impeded in our attempt to “get behind” this bifurcated view directed simultaneously at both, the world and one another, we can still know that it is just one and the same nature from which there has evolved a cultural form of life which permits an objectivating view at the world of objects only from within an intersubjectively shared life-world.
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これはこれで、大変な含蓄のある発言なのであるが、「ベンジャミン・リベットとその追随者たち」の仕事を軽く引用して、さらに、「著名な決定論者たちはこの結果をリベット自身による解釈とは対照的に、我々が自らを自由意志を持った存在だと自認することもまた幻想に過ぎない、という主張を裏付けるものとして用いているのである。」として、決定論に対しての反論を展開しているのだが、論点の三つはどれもすばらしく難解で、リベット先生の提示した実験の説得力に遠く及ばないものと私には思われる。
ハーバマスは「史的唯物論の再構成」なんていうマルクス的な本があり、一方で、多方面に関しての著作があるエライ人だと思っているが、「自由意志」に関しては、こんなことになってしまう。
これって、「天動説」じゃないですか?
意識の探求―神経科学からのアプローチ インタヴュー
意識の探求―神経科学からのアプローチ;岩波書店
クリストフ・コッホ (著), 土谷 尚嗣, 金井 良太(訳)
*この本の、最終章に収められた、架空の、自作自演のインタビュー。*部分はわたしのコメント。
二十章 インタヴュー
*
「ねえねえ教えてよ。それってどういう意味?」とアリスは尋ねた。「君は賢そうだから教えてあげよう。」と、ハンプティーダンプティーはとても嬉しそうにいった。「どうしてもわからないこと、ってのはしょうがないんだ。その話題はもうたくさんだっていうことだよ。だから、君がこれからどうするつもりなのか話してくれてもいいし、ほら、残りの人生ずっとここにとどまっているつもりじゃないんだろう。 」「鏡の国のアリス」ルイス・キャロル(Lewis Carroll)
*
結局、本書の主張とは何だったのだろうか。十九章をより分かりやすくするため、最終章では、架空のジャーナリストから受けたインタヴューという形式で、本書の趣旨をまとめてみたい。意識について考えていると、現在の我々の理解では答えるのが難しいが、興味深い数多くの問題に直面する。どうやって脳というシステムが意味を扱うことができるのか。動物に意識があるとすれば、動物実験は倫理的に許されるのか。我々に自由意志はあるのか。機械やロボットは最終的に意識を持つようになるのか、などなど疑問は尽きない。ここでは私の憶測を交えてこれらの疑問に答えていきたいと思う。
*
ジャーナリスト:まず最初に、コッホ教授の採る、「意識の探求」への戦略を一言でお願いします。
*
コッホ:第一に、私は、我々に意識があることは、否定しようのない事実であり、どうやって意識が脳から生じてくるのかを、我々は説明すべきだと考えています。主観、感覚、質感、クオリア、意識、現象としての経験、どんな言葉を使うかは自由ですが、そういうものを、我々は確実に事実として経験している。なんらかの脳の処理過程からこの意識は生じてくる。我々にはこういう意識的な経験があるから、人生が彩られたものになっているんです。大平洋へ沈む深い太陽の深い赤、バラの素晴らしい香り、犬が虐待されるのを見たときにこみ上げてくる激怒、スペースシャトル・チャレンジャー号が爆発したのを生中継のテレビで見たときの鮮明な記憶。こういった主観的な感覚が、どのようにして脳という物理的なシステムから生じてくるのかを説明するのが、現代科学の役割なんです。それができないようでは、科学のもたらす世界観なんて、本当に限られたものにすぎないでしょう。
*
私の第二の主張は、哲学者が論じている難しい問題は取り敢えず、おいておこう、無視しよう、ってことなんです。特に難しいのは、何故、何かを見たり聞いたりすると、それぞれに特有の感覚を我々は感じるのかということなんです。自分がいつものように自分であると感じるのはどうしてなのか、非常に難しい問題ですね。そういうことに捕らわれ過ぎずに、ひとまず、科学的に取り組める問題に集中しましょう、といっているのです。意識が変化するのにつれてぴったりと活動を変化させるようなニューロン(神経細胞)、そういう意識と相関のあるニューロン(Neural Correlates of Consciousness)をNCCと私は呼んでいますが、そういうニューロン、もしくは意識と相関するような分子を明らかにすることに集中しよう、というのが戦略なんです。具体的に言うと、ある特定の意識的知覚を引き起こすために十分な最小限のニューロン集団の仕組みとは一体何かを明らかにすることを目標としています。最近の脳科学における技術の進展には目を見張るものがあります。哺乳類における遺伝子工学、サルの脳内から何百個ものニューロンを同時に記録する技術、生きた人の脳を輪切りにして画像化するイメージング技術。これらの技術を持ってすれば、NCCの探索は現実的な目標といえるでしょう。問題の定義もはっきりしているので、一貫して、科学的な成果が出せるはずです。
*
ジャーナリスト:NCCが見つかれば、意識にまつわる謎は解決されるということですか?
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コッホ:いやいや、そんなに事は簡単ではない。なぜ、どんな状況において、ある種の非常に複雑な生命体が、主観を持って感覚を経験するようになるのか。なぜそれぞれの感覚には特有の感じられ方が決まっているのか。こういう問いに対しても、最終的に、原理的な説明ができるようにならなければ、意識の謎は解決されたことにはならないんです。人類は二千年間もこれらの謎を解こうとして、もがいてきたんです。実に「難しい」問題ですよ、これは。NCCが見つかったとしても、それは始まりにしか過ぎないでしょうね。謎を解くには程遠い。NCCの発見が意識の探求について果たす役割という意味では、DNAの発見と生命にまつわる謎との関係がもしかすると良い例になるかもしれません。DNAが二重螺旋構造を持っていることが解明されたことで、どれくらい遺伝の仕組み、すなわち、分子がどうやって複製コピーを作っているかが明らかになったか思い出してください。糖とリン酸、そしてアミノ基でできた二本の鎖が、弱い水素結合によって相補的な螺旋構造を持っていることが発見されるとすぐに、遺伝のメカニズムが提唱されました。遺伝情報はどう表現されているか、どう複製されるのか、そしてどう次の世代へと受け継がれていくのか、一気に遺伝の謎、生命の謎を解く鍵が示されたんです。遺伝のメカニズムは、DNA分子の構造を知らなかった、それ以前の世代の化学者や生物学者には、絶対に思いもつかなかったはずです。同じようなことが、意識の謎についても起きるかもしれません。ある特定の意識的知覚が、どの脳部位にあるニューロン集団によって生成されるのか、そのニューロン集団はどの部位へ出力を送って、どこから入力を受け取るのか、どんな発火パターンを示すのか、生後から成体になるまでの発達過程ではどうなっているのか。これらが分かれば、意識の完全な理論へとつながるブレイクスルーをもたらすかもしれません。
*
ジャーナリスト:というのが、理想というか、夢ですよね。
*
コッホ:たしかに現時点では夢かもしれません。だけど、NCCを探すよりも信頼のおける代替策はないんです。論理的に議論したり、自分自身の意識経験をじっと内省したりしても無駄でしょう。二百年前までは、科学実験が無かったので、学者達はそうやって意識の謎に取り組んできたわけですが、経験から言うと、そんな方法では意識の謎にはとうてい太刀打ちできない。頭の中で哲学者のようにごちゃごちゃ考えていたって、理屈で意識の謎が解けるわけがない。椅子に座って、じっくり考えて答えが出るほど、甘くない、脳はあまりにも複雑なんです。進化の過程で起きた、ものすごい回数起きたでたらめの出来事や偶発的な出来事を通じて、現在の複雑な脳が できあがってきたから、理屈が通用しない部分すらあるんです。むしろ今は、観察事実を積み上げることが必要でしょう。ニューロンから伸びる軸索の結合パターンはどれ程精密なのか。たくさんのニューロンが同時に発火することは意識が生じるのに重要なのか。皮質と視床の間を行き来しているフィードバック経路は、意識に重要なのか。NCCを構成するニューロンは特定の種類のニューロンなのか。こういう仮説が正しいかどうかを突き止めることの方がはるかに大事なんです。
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ジャーナリスト:なるほど。ということは、科学的に意識の理論を構築していく上で、哲学者に何か役割はあるのでしょうか?
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コッホ:歴史を振り返ってみると、哲学が、現実世界に関する疑問に対して、白黒はっきりつけたという、目覚しい結果は見られません。宇宙はどこからきてどうなって今まであるのか、生命はどうやって生まれたのか、精神はどんな性質を持っているのか、生まれが大事なのか、それとも育ちのほうが大事なのか。これらの問題になどに哲学が明確な答えを出した試しはない。ただ、哲学が問題解決には不向きだ、と声高に指摘するような失礼な学者は滅多にいないから、そういうことこの事実をめったに耳にすることがない。一方で、哲学者が問いを立てることに秀でているというのは確かでしょう。哲学者は科学者には思いつかないような視点でものを見ています。意識の問題には「難しい・ハード」なものと「簡単・イージー」なものとがあるという観念、現象としての意識とアクセス意識の区別、意識の「内容」と意識「そのもの」の識別、意識は何故統一されているのか、意識が生じるための条件とは何か、などは科学者がもっと考えるべき重要な問題です。まとめると、哲学者の投げかける問いには注目し、彼らの提示する答えにまどわされないようにするのが一番良いってことです。そのいい例が哲学者のいう「ゾンビ」でしょう。
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ジャーナリスト:「ゾンビ」って、腕をだらっとのばして歩き回る呪われた死人のことですか?
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コッホ:いや、ちょっと違う。見かけ上は、私やあなたと全く変わらないが、まったく意識がない架空の生き物のことを哲学者は「ゾンビ」と呼んでいるんです。チャルマーズがこの魂のないゾンビを議論に使って、今までに知られている宇宙の物理法則からは、意識がどうして生じるのかを説明できない、と主張している。物理学、生物学、心理学の知識は、主観的経験がこの宇宙にいかにして現われてくるのか理解するのに、これっぽっちも役に立たないという主張だ。何かそれ以上のものが必要だと。この奇怪な架空の生き物、ゾンビを使った哲学的な議論が、私には非常に役に立つ概念だとは思えない。しかし、哲学者のゾンビには程遠いが、それに似たような状況が現実にもあるんです。フランシスと私はこの取っ付きやすい用語を使って、一連の、それ自体は、意識にのぼらない素早いステレオタイプの感覚と運動の連合した行動を示すことにしました。古典的な代表例は、運動を制御することです。走りたいと思えば、何も考えず、ただ単に、[走る]だけでしょう? 体制感覚器とニューロンと筋骨格系があとはなんとかしてくれる。ただそれだけであなたはどんどん進んでいく。自分がどうやってそれぞれの筋肉をどう動かしているのか内省的に振り返ろうととしても、全く見当もつかないでしょう。このように一見単純な行動に潜んだ、驚くまでに複雑な計算と運動が直接意識にのぼることはない。
*
ジャーナリスト: ではゾンビ行動というのは反射行動なのですね。ただし、より複雑な。
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コッホ:まさにそのとおり。大脳も含めた反射ということです。水の入ったグラスに手を伸ばす。そのとき、グラスを握るため手が自動的に開く。そういった行動は一種のゾンビ行動で、腕と手を制御するために視覚入力を必要とする。これらの行動は1日に何千回と行われている。もちろん、あなたはグラスを見ることができるが、それはまた別の神経系での神経活動が意識的に知覚されるからです。
*
ジャーナリスト:ということは、健常者の中にも、無意識のゾンビ・システムと意識システムが共存しているということですか?
*
コッホ:まさにそういうことです。毎日の行動のうち、大部分がゾンビ・システムによって制御されています。仕事にいく時の運転はまさに自動的だし、目を動かすのも、歯を磨くのも、靴ひもを結ぶのも、同僚に会ったときに挨拶するのも、その他の色んな日常生活における行動は、みんなゾンビ・システムがコントロールしているのです。ロッククライミング、ダンス、空手、テニスなどの複雑な行動でも、十分に訓練を積んだ後では、意識せずに、無心でやると一番うまくいく。どれか特定のひとつのアクションについて考え過ぎると、かえって滑らかな運動に干渉してしてうまくいかない。
*ゾンビ・システムは。原則として、これまでの知識で解釈できるわけです。神経細胞で構築できると思う。またたとえば、それと等価なものをコンピューターで構築することもできそうだ。つまりは、知覚→脳・処理→運動→知覚→以下ループ、という循環をつくればよいだけで、脳・処理の部分についても、ジャクソニスム的な原則を適用すれば、だいたいは説明がつくように思う。説明がつかないのが、「主観的体験」であり、「自意識」である。「自分は今経験している」と感覚すること、これがどのようにして生成されるのかが問題である。しかし手がかりがないわけではない。病気の中には、まさに、こうした、「主観的体験」「自意識」の部分が障害を受けるものがあり、そこでは、自意識の病理が展開される。完璧なモデルはまだないが、不完全な萌芽的モデルならば、提示できる。
ジャーナリスト:そんなにゾンビ・システムが効率的ならば、そもそも、なぜ意識なんて必要なのでしょうか?どうして私はゾンビではないのでしょうか?
*こういうことも思考の上では楽しいが、必要も何も、実際にあるのだと言いたい。
コッホ:どうしてあなたがゾンビでありえないのかについて、私には論理的な理由はわかりません。でも、全く感覚のない人生というのはそうとう退屈でしょうね。(そもそも、退屈という感覚さえもゾンビにはないのだろうけど。)しかし、この惑星の進化はちがう方向へ向かったわけです。非常に単純な生物がゾンビ・システムだけから成り立っているというのはあり得る話だ。だから、カタツムリや回虫にいたっては何も感じていないかもしれない。しかし哺乳類のように、様々な種類の感覚器からの膨大な入力を受け取り、そして複雑な行動を生み出すことのできる効果器を備えた動物にとっては、あらゆる可能な入力と出力の組み合わせそれぞれに対してゾンビ・システムを用意しておくというのはあまりにコストがかかる。脳が大きくなり過ぎてしまう。実際、進化の過程では、この問題は別の方法で対処した。予測していなかった出来事に対処したり、未来の計画を立てられる、ずっと強力で融通の効くシステムを作り上げた。NCCはある環境の選択された関心のある部分、すなわち、あなたがいま現時点で認識している物事を、コンパクトに表象し、この情報を脳における計画の段階にアクセスできるようにしている。このためには、なんらかの形で、数秒にわたるような即時記憶が必要とされる。コンピュータ用語では、現在の意識の内容というのはキャッシュメモリの状態に対応する。意識の流れが、視覚知覚、記憶、いま聞こえている声へと不規則に行き来するのにあわせて、そのキャッシュメモリの内容も変動する。
*「未来の計画」には疑問。
*「進化論的には、自意識は生存可能性を高めるはずだ」なんていう議論も、意識のメカニズムそのものには関係ないのだと思う。何故その方向に進化したかを説明はするだろうが、そんなことは、事実がわかってからでいいだろう。
ジャーナリスト:なるほど。意識の機能というのは、自動的な対応方法を用意するのが難しいような状況を扱うことだということですね。もっともらしく聞こえますが、なぜこれが主観的感覚を伴うことになるのでしょうか?
*
コッホ:確かに難しい問題はそこだ。現時点では、なぜ神経活動が感覚を引き起こすのかを説明できる合理的な仮説はない。もっと正確に言うと、色々な提案はあるけれども、どれも納得がいくものではないし、広く支持されているものもない。しかし、フランシスと私は「意味」というものが決定的に重要な役割を果たしているのではないかと思っている。
*
ジャーナリスト:言葉の「意味」ですか?
*
コッホ:いや、言語的な意味ではない。私が感じたり、見たり、聞いたりする世界にある物体は意味のないシンボルではなく、豊富な連想を伴っている。磁器のカップの青の色合いは子供の頃の記憶を喚び起こす。そのカップを掴んだり、その中にお茶をそそいだりすることができるということを私は知っている。落としたら、粉々に壊れてしまうこと。これらの連想が明示的である必要はない。それらの連想は、生きてきた期間の経験を通じて行われてきた、外世界との数えきれないほど感覚̶運動の相互作用から成り立っている。こういった捉えどころのない「意味」は、磁器のコップを表象しているニューロンと、他の概念を表しているニューロンとの間の、入力と出力両方においての、シナプスの相互作用に対応している。このような膨大な量の情報が、コップを知覚する時の「質感クオリア」という形で、簡潔に記号化されている。これが我々の「経験」の正体なのです。この問題はさておき、実証されない推測ばかりで何百年も困難につきあたっていたこの分野で重要なことは、我々の枠組みが操作上の意識のテストを提供しているということだ。ゾンビ・エージェントは現時点の情報だけを扱うので、短期記憶を必要としない。例えば、差し伸べられた手をみて、自分の手を伸ばし握手をする。このとき、差し伸べられた手を見てから自分の手を伸ばすまでに、ちょっとした遅れを課されると、ゾンビ・エージェントはすでに役に立たなくなる。このような状況はゾンビ・エージェントの守備範囲外であって、こういう状況を扱うために進化してきたのは、より強力な(ただし作用するのに時間がかかる)意識システムなのだ。こういったゾンビ・システムにはできないが、意識システムにはできる行動を基にして、「意識テスト」とでも呼べるような、簡単な操作的なテストを考えられる。このテストは主観的経験を容易に伝えられない動物、赤ん坊、患者などに、意識があるかを試すことができる。つまり、直感的な行動を抑制した後に、数秒遅れて反応を起こすというような選択を動物にさせる。もし、その生物がそれほど学習を必要とせずにそうした非直感的な遅れた行動をとれることができれば、その動物は計画を立てるのに関連した機能が備わっていると考えられる。少なくとも人間においては、計画に関わる仕組みと意識とは密接に繋がっている。よって、その動物は何らかの意識を持っている可能性が高いと考えられる。逆に、NCCが破壊あるいは不活化されれば、数秒の遅れを跨ぐような行動をとることはできなくなるだろう。
*「正体」と言っているが、正体は何かわかっていない。
*「意識テスト」はおもしろそうだ。
ジャーナリスト:しかしこれでは、意識の厳格な定義とは言えないのではないでしょうか 。
*
コッホ:まだゲームは始まったばかりだから、現時点で正式な定義を立てるには早すぎる。一九五〇年代のことを思い起こしてほしい。もし分子生物学者たちが「遺伝子」の正確な定義は何かとあれこれ悩んでいたら、ここまで分子生物学は進んだだろうか?現在でさえ、「遺伝子」を正確に定義するのはそれほど簡単ではない。我々の意識の遅れテストを、チューリングテストのようなものだと考えて欲しい。ただし、チューリングテストは「知性」があるかないかをテストするが、遅れテストは「意識」の有無を明らかにするという違いがある。科学において重要なのは、遅れテストが、夢遊病者、サル、マウス、ハエに応用できることだ。
*
ジャーナリスト:ちょっと待って下さい。虫にも意識があるかもしれないってことですか?
*
コッホ:意識が可能となるためには、自分自身を振り返るために、言語と自己の表象が必要だと考えている学者は多い。確かに、人間が自分自身について再帰的に考えることができるということに疑いの余地はないが、この機能は大昔に進化したより基礎的な生物システムに最後に付け加えられた機能に過ぎない。意識は非常に原始的な感覚と結びついている可能性がある。赤い色をみたり、痛みを感じたりする時に、言語だとか高度に発達した自己だとかいう観念が必要だろうか? 重度の自閉症の子供達やひどい自己妄想や離人症症候群を持った患者ですら、世界を見て、聞いて、嗅いでいる。これらの言語や自己の表象が著しく侵された人々も基礎的な知覚的意識は正常なのだ。
*そうですね。離人症の人も、忙しいときはそれなりにやっています。自省する瞬間があると、自分の感覚がおかしいと意識し始めて苦しいといいます。
言語を持った動物が進化の過程で現れてくる以前に、ある種の動物は意識を持っていた。私の研究対象の意識とは、そういう類の意識だが、となると、意識が進化のどの過程で生まれてきたのかが気になるところだ。さらに言えば、Ur‐NCC(NCCの原型)は、いつごろ地球上に現われたのだろう? 哺乳動物は、我々人類と進化上枝分かれしてからそう時間も経っていないし、脳の構造も我々のものと良く似ている。だから、サル、イヌ、ネコ、は少なくとも見たり、聞いたり、臭いを嗅ぐという我々と同じような経験・質感を持っていてもおかしくはないだろう。
*そうですね。
ジャーナリスト:マウスはどうでしょうか? 生物学や医学の研究で最も頻繁に使われている哺乳動物ですよね。
*
コッホ:マウスを使うと、新しい遺伝子を挿入したり、既存の遺伝子をノックアウトするとなどという、ゲノムの操作が他の哺乳動物と比べると簡単なんです。だからマウスはモデル動物として非常に有用だ。マウスに遅れテストを実験的に適用することは実際可能なので、分子生物学の手法と組み合わせて、NCCの基礎を遺伝子操作を使って神経科学が研究するという強力なモデルになるだろう。私の研究室は他の研究室と共同で、古典的なパブロフの条件付けパラダイムを用いて、注意と「気づきアウェアネス」のマウス・モデルを開発しようとしている。
*
ジャーナリスト:今、意識コンシャスネスの代わりに気づきアウェアネスとおっしゃいましたね。それらは別の概念なのですか?
*
コッホ:いや、同じことです。慣習的にそういう実験では「気づきアウェアネス」と言うことになってるんです。意識(Consciousness)が、我々研究者の間では、「Cワード」と呼ばれることもあるように、研究者の中には強い嫌悪を示す人たちがいる。したがって、研究費を申請する時やや論文を投稿するときには別の言葉を使ったほうがいい。気づき(Awareness)という単語はそういうレーダーをたいていくぐり抜けるようだ。
動物の意識について続けましょう。意識がマウスで見つかるならば、そこで立ち止まる必要はない。哺乳動物で止まる必要すらない。大脳皮質が無ければ意識は生まれるはずは無いと、勝手に、大脳に対して狂信的である必要もない。大脳やその附随構造が知覚意識に必要だとは実証されていないんです。イカも意識を持っているんじゃないか?ハチはどうか? ハチは百万個ものニューロンをもっており、彼らは非常に複雑な行動を取ることが知られている。視覚的な刺激を覚えておいて、答えるというパターンマッチングをはじめ、色々なことができる。私が知る限り、数十万個のニューロンがあれば、見たり、嗅いだり、痛みを感じたりするのに十分かもしれない!ショウジョウバエすら意識を持っている可能性はある。恐らく、彼らの意識は非常に限られたものだろう。現時点では分かっていないだけの話だ。
*
ジャーナリスト:これも検証できない推測のように私には思えますが。
*
コッホ:現時点では、確かにそうです。しかし、操作的なテストによってこれらの推測を実験で確かめることができる。これは非常に新しいことなのです。我々はつい最近まで、そういう意識のリトマス紙、なんて考えもつかなかったのだ。
*
ジャーナリスト:遅れテストは、機械が意識を持つかを確かめるのに応用できるのでしょうか?
*
コッホ:私はカリフォルニア工科大学の生物学部の教授でもあり、応用科学工学部の教授でもあるから、もちろん人工意識についても考えている。神経生物学への類似から考えるに、遅れテストで試されるような能力を持った生命体(機械も含む)は、感覚を持っている可能性があると思う。そういう生命体は、本能的な行動を抑えて、なんらかの方法で記号の意味を表現できなければいけない。そういう意味で、一見、世界中のコンピューターを繋いでいるインターネットは非常に面白い例だ。ノードの役割をする無数のコンピュータが作り出す、分散型で、かつ、高度に相互連結したネットワークは、新らしいシステムといえる。インターネットには、多くのコンピュータ同士でファイルを交換プログラムや、千台以上のパソコンに分散させても解けないような数学的に厄介な問題を解決するアルゴリズムがあり、非常に複雑な行動を取っているかのように思える。ところが、このインターネットで繋がったパソコンの集合体と、大脳皮質中で互いに興奮・抑制をしあっているニューロンの連合との間には、ほとんど関係性が見られない。特に神経系と異なるのは、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)には、ある一つの、統一された目的を達成するための行動みたいなものが見られないことだ。今のところ、ソフトウェアに元々設計されていなかった、目的のある大規模な振る舞いが自発的に出現したということは起こっていない。そういう振る舞いが、自発的に現れてこない限り、インターネットの意識について話しても意味がない。今のところ、ネットワークコンピューターが、勝手に、電力量の割り当て制御や、飛行機の交通網の整理とか、金融市場の操作などを、作り手の意図とは独立に為された試しがない。ただし、自分の行動を完全に自分でコントロールするようなコンピューター・ウィルスやワームの類が出現すると、こういう現在の状況が未来永劫変わらないとは言えなくなってくる。
*「本能的な行動を抑えて、」別の行動をとることは、別段自意識がなくても、可能なことである。
*「なんらかの方法で記号の意味を表現できなければいけない」というが、このことも、本質的な要請ではない。
ジャーナリスト:反射のような行動をもったロボットに意識は宿ると思いますか?障害物を避けることができて、電池切れにならないように自分の電力をチェックし、必要になればどこかへ充電しにいく。そういう能力に加えて、汎用性を持った計画を立てるためのモジュールが備わったロボットには、意識があると言えると思いますか?
*結局「意識がある」という言葉の意味に還元される。
コッホ:そうですねえ。例えば、そのプラニング・モジュールが非常に強力だとしましょう。自分の身体のイメージ、そしてデータから検索された現在の状況に関する情報を含めて、ロボット自身の周囲の現在環境をセンサーを通して感覚的に表象が可能だとする。その結果、そのロボットが、単独で目的のある振る舞いを生成することができる。さらに、そのロボット、センサーからの情報を将来に生じる損益と結び付けて、自分の行動を律することができる、とここまで仮定しよう。そういうロボットは、例えば、部屋の温度が高くなってくれば、その状況が機械の供給電圧の低下を引き起こすかもしれないので、ロボットはなんとしてもその状況を避けなければならない、ということもわかっている。ここまでくると、「高温」というのはもう、単なる抽象的な数字ではなく、ロボットにとっては、安寧に密接に関わる重要な動機付けの要因と考えられる。そのようなロボットには、ひょっとしたら、あるレベルの原意識とでもいうものを持っているかもしれない。
*
ジャーナリスト:なんだか、非常に原始的な「意味」とでも言うべきものに聞こえてきますね。
*
コッホ: 確かにそうです。しかし、我々人間も、生まれて間もない時点では、恐らく、痛みとか喜びくらいしか意識できていないでしょう。しかし、「意味」には、こういった原始的なもの以外の起源がある。ロボットで言えば、プログラマーが「これは正しい、それは間違い」と教えることなしに、教師なしで学習するアルゴリズムで、知覚と運動をつなぐ表象を学んでいくところを想像してみてください。道を歩こうとして、つまずいたり、よろめいたりしながら、試行錯誤を通して、自分の行動が予測可能な結果に結びつくことを学んでいく。この時、同時進行で、より抽象的な表象も構築されていくだろう。例えば、視覚と聴覚からの入力を比べて、ある種の唇の動きが、特定の発音パターンと頻繁に入力されることが多いことなどを学んでいく。ここでは、「表象が明示的で、はっきりしたものになるのにつれて、その表象によって表される概念がより高度に意図的になっていく」ということが重要だ。ロボットをデザインしている研究者が、もし人間の幼年期の発育過程と同じような過程をたどるロボットを造ることができれば、こういう「意味」というものをより深く研究していくのも可能になるかもしれない。
*人間の発達を考えれば一番分かり易い。精子と卵子から始まって、成人になるまで、どこかで段差があるわけではないのだ。連続しているはずだ。したがって、ニューロンネットワークで説明できるはずだ。
ジャーナリスト:まるで、映画「2001年宇宙の旅」にでてくる偏執病のコンピュータHALの世界ですね!でも、ロボットが「意味」を持つかどうかについてはわかりましたが、まだ私の最初の質問、ロボットの意識に対して答えてもらっていません。コッホ教授が提唱する遅れテストは、意識を持った「ふり」をしているだけのロボットと、本当に意識を持った機械を区別できるのでしょうか?
*できないと思う。「意識を持ったふりができる」ということは、意識を持っているということだと私はおもう。日本語がわかるふりができる犬は、結局、日本語がわかっているのだと私は思う。その場合も、「日本語がわかるとはどういうことか」というところに問題は還元されるようだ。
*今日、出そうなパチンコ台を、どう考えても非合理的としか思えない方法で判断しているおばあちゃんの場合、結果として、あてているという「相関」があれば、それは尊重するしかない。因果関係として認定するのは早いとしても。(これは適切でないたとえかもしれない。)
コッホ:遅れテストが生物の意識システムと反射システムを区別するからといって、同じことがロボットにもあてはまるとは限らない。「我々人間には意識がある。よって、人間に似ている動物ほど、感覚を持っている可能性は高い」という議論に基づいて、進化過程、行動パターン、脳構造などがどれだけ人類と類似しているかを考慮して、ある程度の動物種は感覚を持っていると仮定するのは納得がいくでしょう。けれども、デザインや歴史的な起源、形に至るまでが根本的に異なるロボットについては、そういう議論を前提に意識を考えることはできない。
*
ジャーナリスト:それでは、この話題はひとまずおいておいて、もう一度、これまでに発展させてきたクリック&コッホの視覚意識に相関する神経活動(NCC)仮説についての考えをお聞せ下さい。それはどのような仮説だったのでしょうか?
*
コッホ:一九九〇年に、我々は意識についての初めて最初の論文を発表しました。その論文では、複数の脳部位における神経活動の動的な「結び付け」が、ある種の視覚意識には必要だ、と強く主張した。
*
ジャーナリスト:ちょっとまって下さい。「結び付け」とは何のことですか?
*
コッホ: 赤いフェラーリがそばを過ぎ去っていく場面を想像して下さい。フェラーリは脳の全体にわたる無数の場所で神経活動を引き起こす。活動は色々な場所で起きるにもかかわらず、あなたが意識するのは、単一の知覚だ。自動車の形をした赤い物体が、ある方角に向かって、激しい音を立てて走り抜けていく。この統合された知覚は、運動をコードしているニューロンの活動、赤を表わすニューロンの活動、あるいは形や音や他のものを表わすニューロンの活動、これらをなんらかの方法で「結び付け」た結果、生じるものだ。もう一つの結び付け問題は、フェラーリの傍に犬を散歩させている人がいる場合に生じる。その犬を散歩させている人は、フェラーリと混同されないように、脳内に表現されて、別々に結び付けられなければならない。
*
我々の一九九〇年の論文発表時には、ヴォルフ・ジンガーとラインハート・エックホルン、それぞれが率いる二つのドイツのグループが、猫の視覚皮質のニューロンがある条件下で、それらの発火パターンを同期させるということを発見した。この同期発火は周期的に起こるため、有名な四十ヘルツの振動につながる。私たちは、この四十ヘルツの振動こそが、意識が起きたことを示すニューロンの「目印」みたいなものだと主張したんです。
*
ジャーナリスト: ニューロンの同期と四十ヘルツの振動については、現時点ではコッホ教授はどのように考えているんでしょうか?その後、どんな証拠が得られましたか?
*
コッホ:神経科学界の間では、振動と同期についての見解は、当時も今も、激しく対立し、深い分裂がみられています。ある科学論文雑誌で振動や同期には機能があって、それが意識に関連しているという仮説を支持する証拠が公表されたかと思うと、同じ雑誌のすぐ次の号では、その内容を元も子もないほどに笑い者にするような論文が発表される。しかし、信頼できる証拠が全く無い低温核融合とは違って、ニューロンが二十ヘルツから七十ヘルツの周期で振動する活動すること、そしてニューロンは同期して発火すること、これらの神経活動現象が「存在する」ことに関しては疑いの余地が無い。それでも、異論反論の尽きない問題は数多く残っている。今のところ、我々の解釈では、同期発火や振動には、ニューロン連合を形作るのを助けるという機能があるようだ。ある知覚を表現するニューロン連合が、他のニューロン連合との競合が起こったときに、優位になるように同期・振動が助けているようだ。こういう仕組みは、注意のバイアスをかけているような時に、特に重要かもしれない。しかし、四十ヘルツの振動が意識が生じるのに「必要」だ、とは現在ではもう信じていはいない。
*このあたりのことを我慢強く提案し続けることが大切だとおもう。
*重要なのは、この関係での、測定方法だとおもう。昔の人が電流計を知らなかったように、私たちもまだ、大切な何かの測定法を知らないのだろうと、漠然と思う。しかしそれは電流や磁気と同じように、現世の物理学に属するものであり、超越的な何かでは全くないだろう。
このように、理論に流行り廃りがあって、我々の知識が不安定なのは、精神の基礎となっているニューロンのネットワークを研究するための既存の道具が力不足だからだ。大脳には何百億もの細胞があるのに、現在の最先端技術の電気生理学の技術をもってしても、せいぜい数百個のニューロンから発火を記録するのがせいいっぱいなのだ。つまり、一億個に一個の割合だ。一万から十万個のニューロンの活動を同時に記録できるようにならなければ、本当に大きな成果を得るのは難しい。
*
ジャーナリスト:何百億個もニューロンが大脳にあるのであるば、たとえNCCがあるニューロン連合の活動に基づくとしても、かなりたくさんのニューロンの活動を記録しなれば、NCCを見過ごしてしまいますね。
*
コッホ: まさにそのとおり。現在のニューロン記録技術で科学者がやろうとしているのは、適当に選んだ二、三人の人たちの日常会話を基にして、次回の大統領選挙の結果を占おう、というのに近いでしょう。
*
ジャーナリスト: なるほど、もっともです。では、最初に十九九〇年の論文を発表した後は、クリック&コッホはどのような仮説を提唱してきたのでしょうか。
*
コッホ: 次に我々は、意識の機能に注目した論文を一九九五年に発表しました。様々な状況に応じた対処を素早く行なえるように、将来の計画を立てるようにするというのが、意識の主な機能であろう、と我々は仮定した。この仮定自体は、他の思想家たちがすでに提案してきた仮説に比べて目新しいものではなかった。我々はこの議論をもう一歩押し進めて、この仮定と神経解剖構造からどんな結論が導かれるか、について考えた。脳の中の行動計画に関わる部位は前頭葉に位置するので、NCCは前頭葉に直接にアクセスできなければならない。一方で、サルの脳では、頭の後ろに位置する第一次視覚野(V1)内のニューロンは、脳の前部へ出力を全く送っていないということがわかっていたのです。したがって、我々は、V1ニューロンは直接に視覚的な意識を生み出すのには不十分であり、視覚意識はより高次の視覚野で引き起こされていると結論付けた。
*意識の機能として、「自分の内部状態をモニターして、その延長として、他人の内部状態を推定し、他人とかかわるときに、有利な結果を引き出せるようにする」という考えがある。悲しくて誰かに慰めてほしい場面だと思ったら、慰めてあげる、そうすれば友達になれる、まあ、そんな話。自己の内部モニターが壊れている人がいて、そうすると、他人のこともうまく解釈できなくて、人間関係を滑らかにできなくなってしまう。先天的に視力の弱い人がいるように、先天的に自己モニターが不正確な人はいるもので、それがある種の性格の基盤になるだろうと思う。
コッホ:ここで注意して欲しいのは、我々は無傷のV1は視覚意識に不必要だ、と言っているわけではないということだ。ちょうど眼の網膜にあるニューロンの発火活動が視覚的な知覚に相当しないように、V1の活動も意識の内容に直接相当するわけではない。もしも、網膜の活動と視覚が一致するんだったら、盲点に相当する場所(視神経が集まって眼球から外へ出る所にある、光受容体が全く存在しないところ)には、灰色の穴がぽっかりと開いたようにいつも見えるはずでしょう。つまり、網膜も大脳皮質の一部であるV1も、見るのに必要だが不十分だということです。V1は、目を閉じた時に想像する具体的な視覚イメージとか、鮮明に感じる視覚的な夢を見るのにも不必要かもしれない。
*
ジャーナリスト: どうしてそんなにV1こだわるんですか。NCCがV1に無かったということがわかったとしても、そんなに重要な発見でしょうか?
*まあね。
コッホ: 仮に我々の仮説が正しくて本当にV1にNCCは無いならば、わずかではあるけれども、着実に意識の探求へと向けてにステップを進めていることになるでしょう。特に、最近出てきている証拠は我々の仮説を支持するものが多いようです。そういう結果は、特に科学者にとっては、とても励みになるものだと思う。正しい方法で科学的にアプローチすれば、意識の物質的基礎を発見する、というゴールに向かって進展が得られることを実証するからだ。我々の仮説はさらに、皮質での活動がすべて意識に昇るとは限らないということも含んでいる。
*
ジャーナリスト:それでは、広大な大脳皮質のどの部位に、NCCがあると思いますか?
*
コッホ:腹側経路、すなわち、「知覚のための視覚」を司っているこの経路のどこかに視覚意識のNCCはあるだろうと考えています。さらに言うと、下側頭葉の中やその周りのニューロンがつくるニューロン連合が非常に大事だろう。この連合は、帯状回や前頭葉のニューロンからのフィードバック活動によって活動が維持されている。このフィードバックによる反響的リヴァーブレイトリーな活動によって、競合相手の活動を抑えて優勢になることができる。こういう連合同士の競合の様子は、EEGや機能イメージングを使って観測可能だ。今までは謎の多かったこれらの脳の領域の研究は、電気生理学によってどんどん、日進月歩で進んでいる。中でも特にパワフルな戦略は、「錯視」を使った研究だ。ある錯視では、見せる映像に対して生じる知覚が、一対一の関係にならないことがある。入力映像はずっとコンピューター画面の上に出ているのに、ある時はその刺激がある風に見えて、また別の時にはそうは見えない、そういう錯視がある。ネッカーの立方体はこのパラダイムの良い例だ。そういう双安定バイステイブルの知覚は、前脳部に見つかっている色々なタイプのニューロンの中から、「意識の足跡」を追跡するために使われている。
*実際自分で経験してみると、不思議である。前に紹介した、右回りと左回りのダンサー。
ジャーナリスト:どうして、大脳皮質の後ろの方の知覚エリアと、計画・思考・推論を司る大脳の前部との間での反響的なループが重要なのでしょうか?
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コッホ:私がまさに先ほど述べたように、生物にとって、意識が重要なのは、それが計画・思考・推論と深く関わっているからでしょう。生命を危機に晒すような事が起きると、それに伴って様々な今まで経験したことの無いような状況に立ち向かわなければならない。そういう状況で、 無意識の知覚運動ゾンビ・システムだけでは対処しきれないだろう。今まで経験したことの無いような状況に対処することが、意識の重要な役割なのです。頭の中に小人(ホムンクルス)がいて、その本当の「私」が世界を見ているという感覚をつくり出しているのは、おそらく、前頭前野と知覚皮質との間の投射が原因でしょう。脳の前部に座っている小人が後部の脳を見ていると考えることができる。解剖学的な用語で言えば、前部帯状回、前頭前野、前運動皮質が、後脳部からの強い駆動型のシナプス入力を受けているということだ。
*これは印象を良く説明していると思う。
ジャーナリスト: でも、脳の前部にホムンクルスがいるとすると、今度は誰がホムンクルスの頭の内部にいるのでしょうか?無限ループに陥ってしまって、説明にならないのではないでしょうか?
*これが古典的な指摘。
コッホ:ホムンクルス自体が無意識ならば、もしくは、我々の意識が持っている機能よりも限られた機能しかもたないと考えれば、無限ループには陥らずにすむ 。
*そうかな?
ジャーナリスト:ホムンクルスが自由意志を持って、我々の意志とは独立に行動を起こすことはできるのでしょうか?
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コッホ: 自由意志について語るときには、自分には自由意志がある、と知覚することと、意志の力とをはっきり区別することが重要だ。例えば、ほら、私はこうやって手を上げることができでしょう。それに、私は「私」がこの行動を自発的に起こしたと確信できる。誰かが私にそうしろといったのでもないし、また、数秒前にまで、私はこんなことを考えてもいなかった。自分の体などを自分で制御しているという感覚、自分が自分を一身に引き受けているという行動の主体とも言うべき感覚は、生存にとって極めて重要だ。脳がそれぞれの行動を自分が起こした、とラベルを貼って区別するのを可能にする。(もちろん、この主体知覚にはそれ自身のNCCがあるだろう。) 神経心理学者ダニエル・ウェグナーが指摘するように、「私は行動を引き起こすことができる」というのはある種の楽観論だ。そう考えることによって、悲観論者が試みもしないようなことを、我々は確信と熱意をもって成し遂げることができる。
*自由意志もまた大問題。
ジャーナリスト: でも、あなたが手を挙げたとき、それは事前に起きた事から必然として起きたことなのでしょうか? それとも、あるいは自由意志によって起こされたのでしょうか?
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コッホ: あなたの質問を言い換えると、「物理法則は、形而上の意味において『自由な』意志が働く余地を残しているか」ということですね。誰しもがこの昔から議論されてきた問題に関する意見を持っている。しかし、一般に認められている答えはない。ただ、私は、個人の行動とその意図が解離しているという実例が多くあることも知っている。自分の人生でそういう矛盾した行動と意志の例を探し出すことができるでしょう。例えば、岩棚の上に「登ろう」と思っていても、身体が脅えてついてこないとか。あるいは山の中を走っていて、精神的にはくたびれているが、脚が勝手に走り続けてしまったりとか。催眠術、心霊術、自動筆記、パソコンを使ったコミュニケーション法(ファシリテイティッド・コミュニケーション、FC法)、憑依現象、群衆の中にいる時に感じる没個性化、臨床における解離性同一性障害などは、行動と意志経験の間の解離の極端な例だ。結局、私が手を上げるのが本当に自由なのかどうか、それがリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指輪」に出てくるジークフリート神が世界秩序を破壊するときぐらい自由なのかどうかは、私にはわからない。
*わたしは自由意志は錯覚だと主張せざるを得ない。しかし、ここで言葉の意味を哲学的に掘り下げている暇があったら、人間のニューロン・ネットワークをどのようにして「測定」するのか、かなり奇妙なアイディアまで含めて、トライした方がいい。
ジャーナリスト: コッホ教授にとっては、自由意志の問題は、NCCの探究とは別問題だととらえてもよろしいでしょうか。
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コッホ: まさにそのとおり。自由意志が存在しても存在しなくても、感覚経験という難問については説明がなされなければならない。
*そうです。
ジャーナリスト: NCCの発見は、我々に何をもたらすと思いますか?
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コッホ: NCCの状態をオンラインで測定する技術のような、実際に役に立つものが我々に身近になるのは確かでしょう。医療従事者は、そういう意識計のようなものを使って、未熟児および幼児、重度の自閉症患者あるいは老人性痴呆症、負傷のため話すことも合図を送ることもできない患者などの意識状態をモニターすることができるようになる。また、それによって、麻酔技術もさらに進むだろう。意識がどのように脳から生じるのかが理解されれば、科学者はどの動物種には感覚能力があるかがわかるようになるだろう。霊長類は、世界を我々と同じように視覚と聴覚を通して経験しているだろうか? 哺乳動物はどうか? 多細胞生物は? これらの問題の解決は、動物権アニマル・ライトの議論に深く影響するはずだ。
*そうかな?
ジャーナリスト: 具体的にはどのように?
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コッホ: NCCを持たない種は、ある知覚入力に対して一定の運動を起こす、というシステムの集合体、すなわち、主観的な経験のないゾンビと見なせる。そのようなゾンビ的な生物に、様々な状況でNCCを示す動物と同じレベルの保護を与える必要はないだろう。
*そうか?
ジャーナリスト: ということは、苦痛を感じる動物をつかって動物実験などはできないことになりますか?
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コッホ: 理想的にいえば、確かに動物実験などしないほうがいい。しかし、実際にはそうもいかない。私は一人の娘を乳幼児突然死症候群で誕生の八週間後に失ったことがある。私の父親はパーキンソン病で十二年間も苦しみ、最期にはアルツハイマー病との合併症を起こして死んでしまった。私の親友は精神分裂病の最も強烈な発作中に自殺してしまった。こういう悲劇や数多くの神経系の病理を根絶するためには、動物実験はどうしても必要となる。細心の注意と、同情、場合によっては、(この本に記述されたサル研究の大部分のように)動物達が自発的に我々に協力してくれるような環境を整えて実験することが大事だ。
*
ジャーナリスト: 倫理問題や宗教に対してNCCの発見はどのような意味をもつでしょうか?
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コッホ: 形而上学の視点から言えば、神経科学が相関関係コリレーションを越えて因果関係コーゼーションに辿り着けるかどうかというのが重要なポイントになる。科学者が求めているのは、神経の活動から主観的な知覚表象へと続く、一続きの因果関係を説明する理論なのだ。「どの生物」に「どんな条件の下で」主観的な感情は生成されるのか?「何のために」、そして「どのように」意識が生じてくるのかを説明する理論が。もしも、万に一つの可能性として、そういう理論を公式化することができたとしよう。その公式が、客観的に測定することができない、今のところ知られていない存在論上の実体を含まずに構築されるとしよう。このような理論体系は、ルネッサンスにはじまった科学的な努力の結晶が、最後の大きな山を登りつめたことの証となるだろう。数学的に言えば、「閉じた系」において、精神が物質からどのように発生するかを定量的に説明することが可能になる。この理論は、倫理問題への重大な影響を与えることになるし、新しい人間の概念を生み出すことにもつながるだろう。人間はいつの時代も、どの文化においても、あるべき人の姿というものを概念として伝統的につくりあげてきたが、そういう従来のイメージとは根本的に異なる人間像が生まれてくるかもしれない。
*それはそうだ。でも、そんな風呂敷を広げる前に、「何か」を「測定」しよう。
ジャーナリスト:必ずしも、誰でもがそういったシナリオに興奮するわけではないと思います。理論化が成功すれば、宇宙からすべての意味を奪い去ってしまうことになるかもしれない。科学は無慈悲で、人間性を失わせる側面があるが、意識の解明に至っては、その最たるものだと主張する人たちも出てくるでしょう。
*理論化が成功していなければ、安心していられるのですか?その人たちは。おかしなことだ。
*たとえていえば、円周率は、3.1と3.2の間にあるだろうと言われていて、しかし、はっきりとは証明されなくて、具体的に、3.15よりも大きいのか小さいのかも分かっていないという段階であるとして、しかしそれでも、半径と円周との間には、比例的な関係があるだろうとは推定できるのであって、はっきりしていないから、比例もしないだろうと言っているのはやはり納得できない。
コッホ: そんなことはない。新たな知識を得ることで、世界の素晴らしさを感じられなくなってしまうなんてことはない。物を見たり、嗅いだり、味わったり、触れたりすることのできる、全ての物質はたった九十二個の原子から出来上がっているということに対して、私は畏怖の念すら感じる。あなたも私も、この本も空気も地面も、空の星だって、全部が全部ですよ。これらの原子は、周期表の上に並べることすらできる。原子はさらに、陽子・中性子・電子のより3つの基本的な要素からできている。神秘主義の知識がこういった科学知識以上に、満足感と畏怖をもたらすことがあるだろうか?また、科学知識の理解によって、人類・犬・自然・読書・音楽への私の愛が一ビットたりとも減少するなんてことは全くない。
*ここはわたしは違う。世界観や人間観に大きな影響があると思う。そして、すでにあるべきだと思うのである。それがないというのは、何か誤解をしているのだろうと思う。
ジャーナリスト:宗教はどうでしょうか?多くの人が身体が死んだ後も生き続けるある種の永久の魂を信じています。彼等に対しては何ていいますか。
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コッホ:彼らが抱いている信仰の多くは、現代科学の世界観とはどうしても矛盾を起こしてしまう。私がはっきりと言えるのは、すべての意識的な行為や意図には、物理的な何かに相関しているということだ。生命が終わると、意識も終わる。脳なしに精神は存在しないからだ。この否定しようのない事実も、魂の存在、蘇生の可能性、および神に関しての信仰と矛盾しないかもしれない。
*彼らが抱いている信仰の多くは確かに矛盾をひきおこす。しかし、非常に限られた、すばらしく洗練された信仰の体系は、現代科学の世界観と矛盾を起こさない。神に関しての信仰と矛盾しない。
ジャーナリスト: コッホ教授は今、この本を書くという五年間の苦難を終えました。お子さんも大学に入学しましたし、これからの人生の目標についてお聞かせください。
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コッホ:モーリス・ヘルツォクがヒマラヤ山脈の初登頂を成し遂げたときの記録「アンナプルナ」の結びの言葉の通りです:人生には他にもアンナプルナ山麓はあるさ。