「意識の探求」第一章-2
アリゾナ大学ツーソン校の、哲学者デービッド・チャルマーズ(David Chalmers)は、意識についてまた別の説を唱えている。チャルマーズは、情報には二つの側面があると主張している。
一つは、コンピューターの中で見られるような、物質的、物理的に実現可能で、外部から観測可能な側面。
もう一つは、現象論的、経験的な、外部から観測することができない側面である。
チャルマーズの世界観では、自動温度調節器から人間の脳に至るまで、どんな情報処理システムも、少なくともある基本的な意味で意識を持っていると考える。たとえ自動温度調節器になることができたとしても、たいした意識を持つことはできないだろうと、チャルマーズ自身認めているが。情報の二面性を考えることで、自動温度調節器から人間の脳に至るまで、情報を表わすシステムすべてに意識があると考えることができる、という彼の大胆な提案は、すばらしく簡潔で格好いい理論であり、私自身、非常に惹かれるものがあるのを認めている。しかし、どうやったら、チャルマーズの仮説を科学実験によってテストできるか、私には見当もつかない。今のところ、この現代版「汎心論(pan-psychism)」は実験によって反証されることがないため、単なる信仰の問題、信じるか信じないかのお話になってしまっている。しかし、時間が経てば、確率論や情報理論を基礎にしたチャルマーズの理論のようなものが、意識を理解するのに必要であったということが明らかになるかもしれない。仮に、チャルマーズの定性的な枠組みが受け入れられたとしても、より定量的な枠組みが作られなければならない。具体的で重要な疑問としては、次にあげるようなものがあるだろう。同時平行(パラレル、parallel)に情報処理する脳のようなシステムと、系列的(シリアル、serial)に情報処理をするコンピューターのようなシステムでは、それぞれのシステムが持つとされる意識はどちらが高度なのか。主観的経験の豊富さは、記憶、メモリの容量の大きさに関係するのか。脳のように、いろいろな場所に分けて情報を保存する形式ほうが、一カ所に集中させるより、経験は豊富になるのか。普段我々がものごとを思い出すときのように、一つのことを思い出すとそれに関連したことが自動的に思い出されるシステムでは、意識はより鮮明になるのか。いくつかの情報処理システムが記憶情報を共有したほうがいいのか。記憶は階層的な処理や保存がなされたほうがいいのか。また、記憶の担い手は安定した物質的実体を持つもの(コンピューターで言えばハードディスク、脳で言えばシナプスの形や細胞のつながり具合)と、一時的だがアクセスの早いもの(RAMや神経の活動電位のようなもの)とでは、どちらがより意識を生み出すのだろうか。
*現代版「汎心論(pan-psychism)」には反証可能性がない。
意識が脳から生まれてくる過程を説明するために、今まで発見されている物理法則以上の、根本的に新しい法則が要求される可能性はなきにしもあらずといえよう。しかし、私はそのような一歩を今すぐ踏出さねばならないとは思わない。
*踏み出した人たちはあまりスマートではないのが残念ながら現状である。
意識を持つには行動が必要だ現実には、神経系を肉体から切り離すことができないという事実を強調するのが、意識の行動説(enactive account、別名、感覚運動説 sensorimotor account)を唱える学者達である。ある場所に適応して住みついた動物種の身体の一部に神経系が存在する。そして、生きている間に起こる感覚入力から運動出力までの無数の相互作用を経験していく中で、自分の身体を含んで、世界がどう成り立っているのかを脳は学んでいく。こうして学んだ知識は、生きているうちにぶつかる様々な困難を乗り越え、種を保存するのに役立っている。意識の行動説の主張者たちは、脳が知覚をサポートすることを認めるが、神経の活動だけで意識が生じるわけではない、神経活動は意識が生じるためには十分でないと主張する。さらに、意識の物質的な原因や相関を捜す研究は役立たないとまで主張する。そのような脳中心の見方ではなく、特定の環境に適応して行動をとっている動物種に生じる「感覚」というものが重要だとしている。
*enactive accountは、かなり正しいが、意識の問題までは届かない。
知覚が生じるのは、一般に、動物が何らかの行動をとる時である、と行動説を唱える人々は強調している。そのこと自体は非常に的を射たものではある。しかし、彼らの、知覚がどのように脳内の神経活動から生まれてくるのかという問題を軽視している態度には、私は全く共感することができない。ある生物が意識を持つためには、その生物の脳内にある種の神経活動が起こらなければならないし、逆にそのような活動が起これば、生物は意識を持つに至る、というのは科学者が合理的な確信をもって言えることである。ある種の脳内活動さえあれば意識が生じるということは、実証的に支持されている。例えば、夢を見ている間、主観的には、起きて活動しているときのように、物を見たり感じたりするという意味での意識があるわけだが、それでもほぼすべての髄意筋が抑制され動かなくなっている。すなわち、毎晩、ほとんどの人は、動くことができないにもかかわらず、脳の活動だけによって、現象論的な(phenomenal)感覚を経験している。また、電気的もしくは磁気的なパルスを使って、脳のニューロン群を直接に刺激すると、もちろん、被験者は全く動いていないにも関わらず、色のついた光のフラッシュなどの単純な知覚が感じられる。この現象を基に、外部の視覚情報を電気刺激のパターンに変えることで、目の不自由な人に視覚経験を直接引き起こす、神経補助具(neuroprosthetic devices)の研究が盛んに行われている。さらに、神経疾患のせいで全く動けなくなってしまったたくさんの不運な患者たちも、どうやら我々と変わらない意識を持っていることも挙げられる。神経疾患の1つ、睡眠発作(narcolepsy、ナルコレプシー)の患者は、一過性の全身麻痺に掛かることがある。極度の笑いや当惑、怒りや興奮などの感情が引き金となって、患者は急に骨格筋の緊張を失って全身麻痺の状況におちいるが、このとき意識を失わない。また、数分間も続く極度の脱力発作(cataplexy、カタプレクシー)におちいると、患者は床に倒れたまま全く動けず、周囲に発作を知らせることもできないが、患者は周囲の状況を完全に把握し、意識をしっかりと持ち続ける。このような、一時的に全く動けなくなってしまった患者だけでなく、一生動けなくなってしまった患者もまた意識を持ち続ける。最もドラマティックな症状は、ロックットイン・シンドローム(閉じ込め症候群、locked-in syndrome)だろう。フランスのファッション雑誌エル(Elle)の編集者、ジーン=ドミニク・ボービー(Jean- Dominique Bauby)のケースを紹介しよう。ボービーは重度の脳卒中の後、上下に目を動かす以外、全く動けなくなってしまった。彼は目の動きをモールス信号のかわりに使って、彼が何を感じ、考えているかを書き綴った本を出版した。もしも、上下の目の動きすらできなくなって、周囲の人々と交信が取れなくなってしまったら、ボービーは、完全な意識をもちながら、人々から死人とみなされるはめになっていたことだろう!彼のようなロックトイン・シンドロームの患者の系統的な研究はまだなされていないが、見ためは全く普通の人々と変わらないようだ。私が第7章でとりあげる、「凍った麻薬常用者(Frozen addicts)」もまた、長期間、全く動けなくなってしまった人の意識をしめす一例である。
*
以上のことから、外部出力としての行動は意識に必要ではない、と私は結論づける。もちろん、体、目、手足などの運動が意識を形作っていくときに重要でない、というわけではない。実際、非常に重要なものだ! しかし、上の例が示しているように、体の自由がきくことが、意識を持つために必要なわけではない。体が全く動いていない状態で、夢を見るし、直接の脳刺激によって感覚は生じるし、動けない患者も意識をもっているのである。
*自意識がどのように形成されるかということと、形成されたあと、どのように振る舞うかということとは、別のことだと思う。
意識はある種の脳内のニューロンから生じてくる特性(Emergent Property)である
この本の作業仮説は、脳内のニューロンがもつ特徴から意識が出現する(emerge)ということである。意識の物質基礎を理解するには、恐らく、今までになかった新しい物理法則を導入する必要はないだろう。むしろ、非常に多くの異なる性質を持ったニューロンが混じりあい、更に、それぞれが、相互に複雑に連結したできたニューラル・ネットなるものが、どのように作動するかについての、今現在以上の、はるかに深い洞察が求められるだろう。環境との相互作用および自己の内部の活動を基にして学習していく、ニューロンの集合体(coalition)の持ちうる機能は、通常過小評価されている。個々のニューロンそれ自身ですら、ユニークな形態を持ち、何千もの入出力を備えた、複雑な実体である。それらの相互連結、シナプス(synapses) は、非常に手の込んだ分子機械である。シナプス連結部には、長短様々な時間スケールにわたる、情報伝達効率を調整する仕組みが備わっていて、学習を可能にしている。人類はかつて、そのような何千億もの複雑な個々の要素が、何千もの入出力によって複雑な絡み合っているような組織を相手にした経験がないのだ。それ故、生物学者さえもが、神経系の特性やその最大限の力を理解するのに苦労している。
*emergeというのは、ずっと昔から、emergence theory 創発説と呼ばれているものである。上の解説でも述べられているように、新しい原理や物理法則は必要とされない。かつては、「量が質に転化する」、複雑さがある点を超えると、休息に質的変化を起こすなどと説明された。あまり説明になっていないので、見込み唯物論などと揶揄されていた。
この意識問題を巡る現在の状況は、20世紀初頭にピークを迎えていた、生気説(vitalism)および遺伝のメカニズムに関しての激論に類似している。ただの化学物質が、それぞれユニークな個人の特性を決定するために必要な情報をすべて貯蔵できるなどと、誰が想像できただろうか? 二細胞期の蛙の胚は、二つに分割されると二匹のオタマジャクシになるが、そのメカニズムが後に化学によって説明されるなどとは、誰が予想できただろうか? エルヴィン・シュレディンガー(Erwin Schrödinger)が考えていたように、これらの事柄を説明するには、ある生気説的な力(vitalistic force)、もしくは、新しい物理法則が必要なのではないかと、多くの科学者達は考えていたのではないか。個々の分子それぞれに固有の特異性が、想像を絶するレベルのものであったために、当時の研究者たちには、生命という現象が、不可解なものに映っていたのだった。この事実は、英国20世紀初期の遺伝学におけるリーダーの一人、ウィリアム・ベイトソン(William Bateson)からの引用が何より雄弁に語っている。ノーベル賞受賞者トーマス・ハント・モーガン(Thomas Hunt Morgan)および彼の共同研究者による『メンデルの法則の遺伝のメカニズム(The mechanism of Mendelian Heredity)』、についての1916年の評論のなかで、ベイトソンは次のように述べている:
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生物の特性は、何らかの形で物質的基盤、恐らく、特に核染色質に、基づいたものだろう。しかし、どれだけ複雑であろうと、染色質や他の物質の微粒子に、我々の遺伝情報を保持する力があるとはとうてい考えられない。異なる生物同士の染色質は、互いに判別不能で似通っているし、これまでに知られている全てのテストにおいて、どの生物の染色質も化学的にほとんど均質であるということが分かっている。この似たり寄ったりの染色質に、それぞれの生物が受け継いで来た高度に特殊化した遺伝情報が備わっている、という仮説は、一般科学者に最も受け入れられている唯物論の範疇をも超越している。
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当時の最先端の科学技術をもってしても、ベイトソンや他の科学者達には分かっていなかったことがあった。染色質、すなわち染色体は、統計的に考えた場合に限れば均質、つまり、大雑把に言って等量な4つの塩基から構成されている。だが、塩基の正確な一次元配列こそがまさに遺伝の暗号化の秘密だったのである。遺伝学者たちは、これらの塩基が巨大な量の情報を蓄えることができるなどとは思わなかった。また、当時の遺伝学者たちには、それぞれのタンパク質分子が持っている驚くべき特異性を知る由もなかった。分子生物学の発展によって、まるで「鍵」と「鍵穴」のように、それぞれのタンパク質分子はある特定の分子を認識できることがわかった。この特異性によって、シナプスでの複雑な情報伝達や免疫系などの働きが支えられている。このタンパク質の特異性は、数十億年間にわたる自然淘汰の過程で進化して生まれて来たものであり、我々の想像を絶するほど複雑かつ精緻な生物学的なシステムになっているのである。物質からどのようにして意識が生まれてくるかを探究をする上で、脳という生物システムがもつ驚くべき特異性や能力を過小に評価してはならない。我々は、同じ誤りを繰り返すべきではない。
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私が本書で主張する仮説とは、意識は、脳の中での非常に複雑な相互作用から「生まれてくる特殊な性質」(emergent property)であるというものだ。すなわち、意識は脳の中の多数のニューロンの相互作用、あるいはニューロン内部に存在するカルシウムイオンの濃度などの相互作用さらには活動電位の相互作用といった、物理的現象が複雑に相互作用することで生まれてくるのだ。意識のメカニズムは物理学の法則と完全に両立しているものの、これらの法則から意識がどのように脳から生まれてくるかを完全に理解するのは容易ではない。
*現代版創発説のようだ。
1.3 我々のアプローチは、実用的で、経験主義的なものである。
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細かい論争に気をとらわれることなく、困難な問題に向かって前進していくためには、十分な根拠を示さずに、いくつかの前提をもうけなければならない。暫定的な作業仮説は、頻繁に修正され、時には、後で否定されるべきものかもしれない。物理学者から転身した分子生物学者、マックス・デルブリュック(Max Delbruck)は、実験のためには、「適度ないいかげんさの原理(The Principle of Limited Sloppiness)」が効果的だと主張した。ある仮説がうまくいくどうか、急場しのぎのややいい加減なやり方で試すのがいい、という原理である。脳と意識について考える時にもこの原理を適用しよう。
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作業(仮説的な)定義「意識」とは何を意味するか、ほとんど誰もが何らかの定義を持っている。哲学者ジョン・サール(John Searle)による意識の定義は、「意識(consciousness)は、感覚(sentience)、感情(feeling) 、気付き(awareness)から成り立つ。意識は、朝我々が夢を見ていない状態の睡眠から目覚めた時にはじまり、昏睡状態に陥ったり、死んでしまったり、再び眠りに落ちたり、その他の方法で無意識にならない限り、その日一日中続く」というものである。 「何が見えますか?」と聞かれて、ボタンを押したり、口で説明したりしてちゃんと答えられるのであれば、今のところ、我々はその人に「意識がある」とみなす。ここでの「意識がある」という状態は、サールのいう、朝から始まり眠るまで続く意識に近い。意識があるとみなされるには、なんらかの注意力(アテンション、attention)も要求されるが、それだけでは十分でない。ここで、更にもう一歩踏み込んだ、科学実験にも耐えるような定義を設けよう。その定義とは「数秒以上情報を維持することが必要とされる、普段慣れていないことを行うことができること」である。そのためには、『意識』が必ず必要である。例えば、読書したり、喋ったりするときには、短期的に何が話題になっているかが頭になければならない、意識しなければならない。この命題が正しいか間違っているかは、科学的な実験を通して、これから検証していくべきものである。
*ジョン・サール(John Searle)による意識の定義なんか考えてみても、あまり意味はない。意識の中身として、attentionやvigilanceがいわれるが、まあ、そうですかというだけでいいだろう。
かなり曖昧であるとはいえ、この仮の定義は、研究を始めるには十分なものである。実験に基づいて、意識の理解が進むにつれて、意識の定義は、新たな知見をとりいれて、より精密な表現へと洗練されていくべきだろう。例えば、意識とは、ある特別なニューロンの集合体が、なんらかの発火パターンを示したときに生じるものだ、など、現時点では想像もつかないような意識の定義になるかもしれない。ところが、現時点で形式的で厳密な意識の定義を作ろうとすることには意味がない。むしろ、誤解を招いたり、必要以上に厳しい定義のせいで、意識の問題の本質を見失ってしまう恐れさえある。例えば、生命とは何か、という問題に対して、ウイルスを生命とみなすべきかどうかにこだわっていたならば、DNAという生命の本質に近付けなかっただろう。それでもまだ、厳密な定義にこだわらないという我々の姿勢が「ごまかし」のように思えるのであれば、「遺伝子(gene)」という語を厳密に定義しようとしていただきたい。実は、遺伝子の定義はいまだに非常に困難なのである。遺伝要素を伝えるひとかたまりのDNAが遺伝子であるという定義で十分だろうか? 単一の酵素を暗号化しているものが遺伝子なのか? 構造遺伝子(structural genes) や、制限遺伝子(regulatory genes)は、どう扱われるべきか?核酸の1つの連続している部分(segment、セグメント)に相当するものを遺伝子とするべきだろうか? イントロン(無意味な塩基配列。その機能が本当に無意味かどうか、現在も分子生物学では議論が分かれている)は遺伝子なのだろうか? ひょっとすると、DNAからメッセンジャー RNAまでに至る、すべての分子編集作業とスプライシングが終わった後の、成熟した状態のものを、遺伝子と定義したほうがいいのではないか? 非常に多くのことがわかってきている今でさえ、単純に遺伝子を定義しようとしても、どうしても不十分なものになってしまう。我々が現在理解している範囲で、意識のような捉えがたいものを定義すれば、もっと不十分なものになってしまうだろうということは火を見るよりも明らかである。
*厳密な意識の定義はたしかに、今のところ、不必要である。たとえば、生命とは何かなんて定義しても、あまり意味はないのと同じである。中身を研究した方がいい。中身の研究が出来ないから、意識とは何かなどと言って、報告しようとするのだろう。
歴史を振り返ってみれば、重要な科学の進展が起こるときには、往々にして、格式ばった厳密な定義がないことが多い。例えば、オーム、アンペールおよびボルタによって、電流現象についての法則は公式化されていたが、それは、トムプソン(Thompson)が1892年に電子を発見するずっと前の話である。したがって、当分の間、私は、上で述べたような一応の定義を使って、意識の研究を行なっていくことにする。この定義がどこまで通用するのか、科学的に検証していくとしよう。
*
意識は人間に特有ではないある種の動物、特に哺乳類には、意識があると考えるのは妥当だろう。ただ、我々が持つ意識の全ての特徴を兼ね揃えているわけではないだろう。他の動物にも、人間とあまりかわらない、視覚、聴覚、嗅覚、その他の知覚経験があるだろう。もちろん、それぞれの動物種は、生態的地位(ニッチ、niche)に適応した、特別な知覚感覚器官を持っており、コウモリなどは超音波を感じる器官を持っている。そういう特殊な感覚も含めて、実際には様々な動物がどんな感覚、クオリアをもっているか、我々には直接知るすべがないことは認める。しかし、私は動物が感覚を持ち、それ相応の主観を持っていることは明らかだと仮定する。動物の感覚や意識を認めないという立場は、思慮の足りない推測にすぎないし、様々な実験事実に反している。ネズミからサル、そして類人猿、人間までの動物種の間には、進化やDNAという証拠や行動学的な研究によって、つながりがあることがわかっている。我々人間を含めた動物は、共通の祖先をもち、進化の過程を経て大自然の中で生き残ってきたのであって、人間だけが意識や感覚を持っているという考えは間違っている。
*こんなことをくどく言うのは、聖書との関係があるから。
猿や類人猿と人間は、行動や発育過程が非常に似ており、脳構造については、非常に類似している。その道の専門家でなければ、1ミリ立方メートルの脳組織が、サルのものか人間のものか区別できない程だ。実際、最先端の脳科学では、入力刺激と意識の関係を調べるときには猿を使っている。覚醒し行動している猿の脳に、電極を埋め込み、ニューロンの活動と猿の意識の関係が調べられている。こういった研究を行う場合には、もちろん猿と人間との類似性に留意して、倫理的な配慮がなされている。猿を使った適切な動物実験は、意識の基礎となるニューロンメカニズムを発見するのに不可欠である。
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もちろん、動物と人間との言語能力の違いは明らかである。言語によって、人間は、非常に複雑な概念を表現し、他者に自分の意図を伝えられるようになった。書物、デモクラシー、一般相対性理論、マッキントッシュコンピューターなどは、言語を用いて作られたものだ。他の動物にはこのような発明ができない。文明生活においては、常に言語が生活の中心となっているため、哲学者や言語学者、また他の分野の人々は、「言語の無い動物には意識を持つことができず、人間だけが、感覚を持ち自分に意識をむけることができる」と信じてきた。自意識、つまり、「私が赤い色を見ていることを、『私』が知っている」、というときの『私』のようなものについては、言語無しでは、たしかに成り立たないかもしれない。しかし、言語を持たない哺乳動物にも、見たり聴いたりするときのクオリアがあるとする説は、分断脳(split-brain)患者や自閉症の子供の臨床研究、進化論的な比較研究、動物行動学などから導かれる結論と合致している。動物が何らかの感覚を持っていても不思議ではないが、すべての動物に共有されている意識的な知覚は、どの程度のものものなのか現在わかっていない。のどの渇きのような比較的簡単な感覚だけは他の動物も同じように感じているのだろうか? 自意識のような高度な意識を他の動物は持っているのだろうか? ただ、神経系の複雑さと、その種の持つであろう意識レベルはある程度相関があると思われる。イカ、ハチ、ハエ、線虫ですら、非常に複雑な行動を取る。恐らく、これらの種にも、ある程度の意識があって、苦痛も感じれば、快楽をむさぼったり、何かを見たりしているのだろう。
*「言語を持たない哺乳動物にも、見たり聴いたりするときのクオリアがあるとする説は、分断脳(split-brain)患者や自閉症の子供の臨床研究、進化論的な比較研究、動物行動学などから導かれる結論と合致している。」そんなはずはないのであって、「クオリアがある」ことを、外側からの観察で証明することは無理だといっていたはず。
*この人は、一般人の質問しそうなことに答えすぎている。
どうやって意識を科学的に研究するのか?一口に意識と言っても、意識には多様な種類があるが、最も取り組みやすい意識、視覚的意識から研究を始めるのが最善だろう。意識がどう脳から生じるかを実験によって探究していく上で、視覚研究は、他の感覚を研究するときと比べて、少なくとも四つほど有利な点がある。
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第一に、人間は視覚的な動物であるということがあげられる。視覚イメージの分析には大量の脳組織が割り当てられており、人間の生活において視覚は非常に重要である。他の感覚と比較してみよう。例えば、あなたが風邪をひいたら、鼻が詰まって、嗅覚を失ってしまうかもしれないが、被害は限られている。ところが、雪盲になるなどして、たとえ一時的にでも視覚を失えば被害が甚大なのは明らかだろう。第二に、視覚は他の感覚に比べ、鮮明でかつ情報が豊富であることがあげられる。絵や映画などの入力刺激は、コンピュータ・グラフィックスを使うことで、操作したり、高度に洗練したりしていくことが容易である。第三に、無限と言ってもよいほどに、次々と発見され、報告されてくる新しい錯覚を使うことで、直接に視覚経験を操作することができる。Motion-Induced Blindness(運動よって引き起こされる消失錯覚, 略してMIB)を例に取ろう。 http://questforconsciousness.com/conscious.html を参照画面上には、三つの非常に目立つ静止した黄色い点がある。その周りをたくさんの青い小さな光点がでたらめに動いている。画面上のどこでもいいから目を動かさないようにして見つめてみよう...しばらくすると、1つ、2つ、あるいは、3つの黄色い点すべてが消えてしまうはずだ。なんと! あなたはこれをみたら絶対に驚くだろう。まるで、青い点からなる雲が動くにつれて、黄色の点を本当に拭きとりさってしまうかのように意識から消えてしまうのである。黄色い点は網膜を刺激し続けているにも関わらず...ちょっと目を動かすと、黄色い点は再び現われる。こういう視覚現象は、哲学者が重要視している「意志 (intentionality)」や、「志向性(aboutness of consciousness))、「自由意志(free will)」、またその他の哲学上の重要概念に、直接関係はないかもしれない。しかし、このような錯覚が、どのように脳内のニューロン活動によって引き起こされるのかが理解できたならば、意識一般が、物質である脳からどのように生じてくるかについて多くのことが分かるようになるかもしれない。分子生物学の初期に、マックス・デルブリュック(Max Delbruck)は、ファージという、バクテリアを捕食する単純なウィルスの遺伝子に注目していた。もしも、あなたが、当時の科学者であったなら、単純なファージの遺伝メカニズムなど、複雑な人間の遺伝と無関係だと思っただろう。しかし、大方の予想とは裏腹に、ファージの研究は、生物一般の遺伝メカニズムを解明するに当たって、重要な鍵となったのである。同じ様なことが、記憶のメカニズムを探る脳科学においても近年確認された。エリック・カンデル(Eric Kandel)は、進化レベルの低い、簡単な生物が記憶する仕組みを研究することで、人間の記憶を支える分子メカニズム、細胞メカニズムについて多くのことがわかるのでははないか、と長年信じていた。カンデルは 、アプリシア(Aplysia)という海カタツムリの記憶の仕組みを明らかにしたのだが、その後の研究により、確かに、より高度な動物における記憶の仕組みについても同じ原理が成り立っていることがかってきたのである。つまり彼の確信は正しかったのだ。
*optical illusionで検索すると、錯視がいくつも見られる。不思議。
最後に、多くの視覚現象や錯視を引き起こすニューロン活動研究が様々な動物種を使ってなされてきた、ということが視覚の研究が意識を解明するためのアプローチとして有効である理由である。このような幅広いニューロンレベルでの研究の蓄積があるおかげで、視覚神経科学は非常に進んでおり、どの実験をすべきか決めたり、データを要約したりする際に、非常に役立つ精巧な計算モデルが構築されている。
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これら四点の有利さを考慮して、私は視覚研究に専念することを選んだ。ところで、アイオワの大学の優れた神経学者,アントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio)は、意識の中でも、感覚的な意識のことを中核意識(core consciousness)と呼び、これらを拡張意識(extended consciousness)と区別している。 中核意識とは、「今/ここ」での意識のことを指している。一方、拡張意識には、多くの人が普段「意識」と呼ぶものにあたり、自分のことを客観的に見る視点を持った自意識と、過去と未来に関する意識的感覚とが要求される。
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私の研究計画は今のところ、自意識や過去未来の感覚をともなう拡張意識、および言語、感情といった意識の一面は捨象している。だからといって、これらが人間にとって決定的に重要でない、というわけではない。それどころか、大変重要である。失語症患者、重度の自閉症の子供、自己喪失患者などは、拡張意識に重大な障害を持つため、病院や老人ホームに閉じ込められている。しかし、こういった障害にもかかわらず、彼らは大概、苦痛を感じたり、ものを見たりといった、中核意識は保っている。中核意識と同じく、拡張意識がどのように脳から生じているのかというのは、非常に不可解で我々にとって大事な問題であることに変わりはない。しかし、拡張意識を研究するのは、動物研究においては、中核意識よりも困難である。拡張意識を動物の行動だけを見てテストする実験を考え付いたり、実際にその実験のために動物をトレーニングすることが簡単ではないので、これらの意識を生み出しているニューロン活動を観察したり、分析するのは難しいだろう。
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私が視覚を研究の糸口として選んだのには、また他の理由もある。匂いや苦痛、視覚や自意識、自分の行動が自分の意志に起因しているという自由意志の感覚など、一口に意識といっても様々な異なる面があるが、おそらく、これら全てに共通のニューロン活動というものが存在していると思われる。もし、この仮定が正しいならば、一種類の感覚についてのニューロン基礎が理解できると、その他の意識感覚の理解は簡単なものとなるだろう。自分の意識を振り返ってみれば、この仮説は非常にラディカルで唐突にきこえる。視覚、聴覚、嗅覚の間に共通点なんてあるのだろうか? むしろ、それぞれは全く異なっているように感じられる。しかし、三つの感覚のもとには、バチバチ、ダダダ、とアンプを通して聞こえてくるニューロンの活動があるのは事実である。主観的には全く異なる視覚、聴覚、嗅覚が、同じ様なニューロン活動や回路によって、引き起こされているのだろうか?
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本書では視覚以外の研究も紹介していく。例えば、イナゴの嗅覚システムを使った、ニューロン同士の発火するタイミングについての研究は、多数のニューロンによる同期発火が意識を生じさせるという仮説との関係で重要だ。また、ベルと餌の関係を覚えた犬が、ベルの音を聞いただけでよだれをたらす、というパブロフの条件付けの研究も、数秒以上の情報時保持には意識が必要だという、我々の仮説を確かめるのに重要である。これらの研究は、ニューロンレベルで進んでおり、将来に期待がもてる。我々の目的は個々のニューロン発火活動と意識を関連づけることなので、動き回っている元気なマウスを使って、行動から予想される彼らの意識の状態と、ニューロンの発火活動を同時に記録するような実験が必要とされる。マウスで可能な分子生物学的手法は非常に驚くべきスピードで発展していて、その力強さはとどまるところを知らない。この技術を使えば、科学者は、マウスの脳を、計画的に、デリケートに最小限のダメージしか与えず、可逆的に、操作するができるようになるだろう。しかしながら、現在の技術ではサルなどの霊長類に対して、こういった分子生物学的な手法を使うことはできない。
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催眠、幽体離脱、夢見ていることを自覚しながら見る明晰夢、幻覚(hallucination)、瞑想などの意識変容状態(altered state of consciousness)を、本書は扱わない。これらのケーススタディは非常に魅力的ではあるが、もととなっているニューロン活動にアクセスすることが難しい(猿は催眠術にかかるのだろうか?)。しかし、包括的な意識理論は、究極的にはこれらの異常な現象も説明できなければならないだろう。
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1.4 意識と相関するニューロン:NCC (the Neuronal Correlates of Consciousness)
フランシス・クリックと私は、NCC(the neuronal correlates of consciousness、意識と相関しているニューロン群)の発見に全力をそそいでいる。脳に入力した情報が、NCCのニューロン群に伝わり、そこでその情報が明示的にはっきりと表現されると、必ずその情報は意識にのぼる。我々の目的は、「ある特定の意識知覚を生じさせるために、最小限必要でかつ十分なニューロンの活動形式とメカニズムを含んだ最小のニューロン群を明らかにすること」である(図1.1)。NCCは前脳部のニューロン発火活動を含む。次の章で詳述されるように、「発火活動」とは、連続的なひと固まりのパルス状の活動電位のことを指している。1パルスは、約0.1V(ボルト)の電圧を持ち、0.5msec、1秒の1000分の1から2000分の1の長さにわたる。これらの2進法の活動電位(action potential 。スパイク(spike)と呼ばれることもある)は前脳部ニューロンの主な出力と考えられる。将来、ニューロンを刺激する技術が進めば、適切にニューロンを選び、正確なタイミングで、多数のニューロンのスパイクを制御するできるようになるかもしれない。もしそのような技術が実用化されれば、普段の生活の中で見る映像、聞く音、嗅ぐ匂いによって引き起こされる、多数のニューロンのスパイクのパターンを、それぞれタイミングも正確に、再現することができるはずである。その場合、人工的な直接の脳刺激による意識と、自然な入力による意識の区別はつかないはずである。この推論は、数ページ前に強調した通り、私たちのアプローチは、意識は頭の内部のものに依存し、必ずしも行動出力には依存しない、ということを前提としている。
*なるほどね。
NCCという概念は、ここで図示されているよりも相当微妙なものである。被験者の目が覚めている時に限って、相関関係が成り立てばいいのだろうか? 夢を見ている時は起きている時と同じNCCが意識を生み出しているのだろうか? 様々な病理に侵されていたり、脳に損傷があるときにも同じ原理は成り立たなければならないのだろうか? 相関関係はすべての動物に対して同じように成り立たなければならないのだろうか? このように、被験者の状況や集められたデータの精度を細かく指定した上で、ニューロンの活動形式と意識知覚の間の相関性を我々は論じなければならない。これらの複雑な問題は第5章で取り上げるとしよう。
*
私がある出来事を意識的に経験しているとき、私の頭の中のNCCが直接これを表現していなければならない、ということを「NCC」という語は暗示している。どのような精神上の出来事にも、それに相互関連したニューロン群の活動との間には、明示的な一致がなければならない。言い換えれば、どのような主観的状態の変化も、ニューロン群の状態の変化が伴っていなければならないということだ。 しかし、逆は必ずしも真であるとは限らない。すなわち、脳内のニューロンの二つの異なる状態が、主観的には判別不能なことがあるかもしれない。 NCCが、ニューロン群のスパイク活動によって表されていないという可能性もある。ニューロンが出力している先のシナプス後部樹状突起の中にある細胞内カルシウムイオンの濃度が NCCである可能性もある。 あるいはニューロンの目立たないパートナー、グリア細胞(ニューロンや脳の中の環境を支援、養育、維持する細胞)が直接にNCCに関係する可能性も、もしかしたらあるかもしれない。非常にその可能性は低いが。 しかし、NCCになっているようなものは、意識との間に直接の関係を持っていなければならない。NCCの変化は直接に意識に影響を与えなければならない。NCCと意識の間になんらかのものがあってはならない。間接的な関係ではNCCとは呼べないのである。なぜなら、NCCこそが、特定の経験のために必要とされる唯一のものだからだ。
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NCCのニューロン群には、神経細胞内成分などの薬理学的な特徴や、細胞の形などの解剖学的特徴、細胞膜の特性などの生物物理学的特徴などの共通項があるかもしれない。そして、これらの特性を兼ね備えたある種類のニューロンの特別な神経活動が、なんらかの閾(いき)値や、最小限の持続時間を保った時に、意識は生み出されるのかもしれない。
*
14章の中で議論するように、意識は単なる付随現象(epiphenomenon)であるとは非常に考えにくい。むしろ、意識をもっていると生存に有利だと考えられる。というのは、NCCの活動は、他のニューロンになんらかの影響を与えるからである。NCCの影響によって起こる二次的なニューロン活動は、最終的には、行動を引き起こすニューロンに影響を及ぼす。その活動は、さらに、NCCニューロンもしくは一段階下のレベルのニューロンにフィードバックをあたえることで、事態をひどく複雑化させている。
*付随現象(epiphenomenon)説も昔からある。この説に属するものにもいろんなタイプがあると思うが、現代的なものは、「他のニューロンになんらかの影響を与える」部分までは全部、付随的ではないものであって、影響を与えない部分で、付随的に発生しているものが意識だとしているのではないかと理解している。
NCCの発見が成功すれば、意識の最終理解に向かって大きな一歩を踏出すことになるだろう。神経科学者は薬品を使ったり、遺伝子組み換え技術で、細胞の性質を操作できるようになるだろう。NCCのニューロン群の活動のスイッチを急速にしかも安全な方法でオンにしたりオフにしたりなどということも可能になるかもしれない。そして、遺伝子組み換えによって、行動は普通のマウスと一見変わらないが、全く主観的な意識を持たないゾンビマウスも創られるかもしれない。ゾンビマウスはいったいどんな行動ができるのだろうか?本当に意識なしで、普通のマウスと全く同じ行動をとることができるのだろうか? NCCが発見されれば、精神病について理解が進むだろうし、ほとんど副作用のない強力な新麻酔薬などの臨床応用なども考えられるだろう。ある特定のニューロンの活動という客観的に測定可能な物理現象と、それによって引き起こされる感覚、すなわちクオリアという主観的な世界との間のギャップを埋める理論が、最終的には要求される(もしかすると、主観的な世界と客観的な物理現象は、次に述べるように、同じことを違う側面からみたものだ、という結論に最終的には辿り着くかもしれない)。なぜ、ある活動がその動物にとって何らかの意味を持つのか?(どうして我々は痛みを感じなければならないのか?)なぜクオリアは、それぞれの特有な質感を獲得するのだろうか? 例えば、なぜ、赤はあの「赤い感じ」であって、「青い感じ」と全く異なるのだろうか、といった疑問を、最終理論は理解可能な形で答えなければならない。
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そこまでの理解に辿り着くまでには、物質的なニューロン群の活動と、精神的な心の中での出来事との精密な関係を取り巻く、重大でややこしい議論を解決しなければならない。物理主義(physicalism)は、この二つ、物質的側面と精神的側面は同一であると主張している。すなわち、紫の知覚表象のためのNCCこそが紫の感覚であり、何も他に必要ではないというのだ。物質的側面が微小電極によって測定されている一方で、精神的側面は脳によって経験される。例えて言うならば、空気の温度とたくさんの空気分子がもっている運動エネルギーの平均値との関係のようなものだ。前者が温度計で記録される巨視的変数である一方、後者は微視的変数である。測定には全く異なった研究道具が用いられるが、二者はあるひとつのものごとを、異なる手段で観測されるそれぞれの側面である。たとえ表面的に全く別個に見えても、温度は分子の平均の運動エネルギーと等価である。分子が速く移動するほど、温度はより高くなる。あたかも片方が原因で他方が結果であると考えるわけにはいかない。というのは、片方が他方の必要十分条件となっているからである。
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現時点では、NCCとそれに対応した感覚に、この種の強い同一性が当てはまるかどうか、私には確信が持てない。本当に、主観的な意識と、客観的な神経活動は、異なる観点から観測される同一のものなのだろうか? 脳内で観察される物理的な現象の特徴、すなわちニューロンの電気化学的な活動と、主観的な我々の感覚、クオリアは、あまりにもかけ離れていて、関係があるのかわからないほどであり、科学法則をもって、物質から意識に至るまでを順に説明するのは、一見、不可能だとも思える。脳内のニューロンの活動と、それに対応した主観的な現象との関係は、哲学者たちが伝統的に考えていたよりもはるかに複雑なのではないだろうか。今のところ、この問題については、様々な解決法があるかもしれないという心構えで、意識と深い相関関係がある脳内ニューロン活動、NCCの正体を暴くことに専念するのが、我々のとることができる最善の心脳問題へのアプローチだろう。
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1.5 要旨の繰り返し
意識がどうやって脳から生じるのかという問題は、心脳問題の中心であり、最重要問題である。21世紀の学者にとっても、この問題は、人類が何千年前かに初めて思いをめぐらせた時から依然として、大きな謎のままである。しかし、この問題に取り組むにあたって、人類の歴史の中で、今日の科学者は最も恵まれている状況にある。今こそ、意識の問題に科学が立ち向かうべきなのである!
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私のアプローチは、動物にも我々と同じような意識が存在し、視覚をはじめとして、聴覚、嗅覚、自意識などはおそらく同じようなニューロン活動がもとになっているだろうと仮定するところから始まる。同僚の多くは、私のアプローチについて、素朴過ぎるとか軽率だと考えているようだ。私は主観的な経験を明白に存在するものであると認め、ある種の脳内のニューロンの活動が、地球上の生物がクオリアを感じることの必要十分条件である、と仮定している。生物の体は、実際に行動を起こして、外界に働きかける時に必要であるが、意識を持つためには一切必要ではない。我々は、ニューロンの細胞体の中、およびニューロン同士のつながり方、集団としての活動形態の中に、主観的に感じられる意識現象を生み出している仕組みを発見しようとしている。この意識を生み出す特定のニューロン活動の性質、NCC、すなわち、意識と相関があるニューロン群の活動、そしてそのNCCが何処にあり、何であるか、これらを明らかにし、そして、どの程度までNCCと、無意識に行われる行動を支えているニューロン活動とが異なるのかを決定することが我々の目指している意識研究である。
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他の感覚よりも、視覚感覚は科学的な実験研究を行いやすいので、知覚の中でも、とりわけ視覚に焦点ををあてて研究がなされている。もちろん、感情、言語、自意識、および他の意識は、日常生活にとって重大であるが、これらの意識については将来に残して、これらがどのようにニューロンの活動から生じてくるかがよりよく理解される可能性が高まるまで待つのが良いと思われる。我々人類の遺伝の仕組みが明らかになったときと同じように、鮮明で具体的な視覚意識に対応するNCCを構成する分子のはたらきや、活動電位やカルシウムイオン濃度などの生物物理・神経生理学的な仕組みを発見し特徴を決定づけるのが重要である。恐らくそこから解決の糸口が見つかって、「ある特別な物理的システムに起こる出来事、すなわち、脳内の電気化学的活動が、どうして感覚を生み出せるのか? もしくは、脳の活動は、感覚それ自体を別の面から観測したものにすぎないのだろうか?」という心脳問題の中心的な謎を解決する方向へと一歩ずつ近付くことになるだろう。
*
人間だけが意識を持っているという信仰は、進化は徐々に進んできたものであって、我々は単独に創造されたものではないという事実に反している。人間の心と、動物の心、特に猿やマウスなどの哺乳類の心には、いくつかの根本的に共通したものがあるはずだ、と私は仮定する。また、私は意識を正確に、厳密に定義しなければならないという、こまごまとした議論や、脊髄には意識があるが私にはそれがわからないだけだ、というような意地悪な議論も無視して議論を進めていく。これらの問題はそのうち答えられなければならないが、今日の時点では、こういう議論は単に意識研究の進展を妨げるだけだろう。戦争に勝つには、最も骨の折れる戦いを最初からしてはならない。
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歴史上、最も人類を悩ませてきたこの意識の問題を解こうという試みの中では、大失敗や、過度の単純化が起こるということも考えられるが、それは時間が経ち研究が進むにつれて分かってくることだろう。今のところ、科学はこの難問に立ち向かい、脳からどのように意識が生じてくるかを調査するべきだ。登山家の気分に喩えるならば、雪で覆われた壮麗な山頂部が見えかくれしていて、いてもたってもいられず、早く最初の一歩を踏出したい、そんな気分である。我々はこの難問の魅力に抗うことはできない。その昔、老子が言ったように、「千里の道も一歩から」。さあ、一歩目を踏出すのです!
*
わたし達の長い旅はいま始まった。この長い探究の道を導く重要な概念をまず紹介しよう。そして、明示的(explicit)VS 暗示的(implicit)なニューロンによる表象、エッセンシャルノード(essential node)、様々な形式での神経活動の概念については特に具体例と共に示していくとしよう。
*それがいい。正しい方向だと思う。
「意識の探求」第一章-1
意識の探求―神経科学からのアプローチ (上) (単行本)
クリストフ・コッホ (著), 土谷 尚嗣, 金井 良太
第1章
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意識研究入門
*
意識の問題があるから、心脳問題(精神物質二元論、the mind-body problem)はとても難しい。しかし、意識の問題がなければ、心脳問題は全然面白くない。ところが、意識の問題は、絶望的に難しいと思われる。
トーマス・ネイジェル(Thomas Nagel)「コウモリになるとはいったいどういうことか?」より
*Nagel, T. “What is it like to be a bat?” Philosophical Rev. 83:435–450
(1974).これは懐かしい論文。しばらく机の上にあったと思う。当時は話し合う相手もいなくて、この方面では結構孤独だった。引用回数の多い論文ではないかと思う。
トーマス・マンの未完の小説「詐欺師フェーリクス・クルルの告白」に登場するカカック教授は、ヴェノスタ侯爵に対し、世界の創造における基本的で謎に満ちた三つの段階について述べている。第一段階ではなんらかの物質、すなわち宇宙そのものが「無」から創造された。第二段階では、生命が、無機物、すなわち、生命のないものから生まれてきた。第三段階では、有機物から意識(consciousness)および意識をもった動物、すなわち、自意識を持ち、自分自身について考えることができるような動物が誕生した。人間や、少なくとも何種類かの動物は、光を検知し、そちらに目を向け、それ以外の行動をとる時に、こういった行動や状況に伴って、光の「眩しさ」等の主観的な「感覚(feelings)」をもつ。我々は、この意識誕生という、驚嘆すべき謎を説明しなければならない。意識の問題は、いまでも科学に基づく世界観が直面している重要な難問のひとつである。
*三つの謎のうち、第二段階の、無機物から生命が誕生したことについては、完全ではないけれど、説明がつくようになってきた。これはやはりすごいことだ。
*第一段階については、全くの、謎。見たこともない。
*第三段階については、どうにか説明できないかなあと思うが、これも、謎。
*宇宙創造は、我々の身辺で見かけることではないけれど、赤ん坊がだんだん人間らしくなるところなら、みんな目撃している。意識のない有機物から意識のある有機物へ、連続した変化であり、我々のほぼ全員に起こる。宇宙の歴史に中で一回起こったことではなくて、毎日起こっていることなのだ。何とか説明できそうな気がする。
1.1 我々は何を説明すべきか?
*
有史以来、我々人間は、「私たちは、一体どうやって、見たり、匂いをかいだり、自分を顧みたり、記憶を蘇らせたりしているのだろう」、という疑問を持ち続けて来た。これらの感覚はどのように生まれてくるのだろうか? 意識的な精神の働きとその物質的基盤、すなわち、脳内での電気化学的な相互作用との間には、どのような関係が成り立っているのだろうか? それが心脳問題の最も根本的で中心となる問題である。 ポテトチップスのあの塩気の効いた味、ぱりぱりっとした食感。高山に登ったときに見えるあの空の濃青色。最後の安全な足場から数メートル上の絶壁で、わずかな手がかりにしがみついているときの、手の感触、ぶらりとした足の感覚、それらからくるスリル感。一体、これらの感覚は、どのようにして、ニューロン(神経細胞、neuron)のネットワークから生まれてくるのだろうか? こういった感覚、知覚の質感は西洋科学、哲学の伝統において、クオリア(qualia)と呼ばれてきた。クオリアとは普段我々が「意識」という語で指す事柄の中でも最も原始的な「感じ」、質感である。クオリアの種類やその強弱は、それを直接感じている本人にしか厳密にはわからないところがポイントである。数日間断水させられた人が、水を飲むことを遂に許されたとき、彼の喉の渇きのクオリアが弱まることは第三者にも想像できるが、実際の彼の喉の渇きのクオリアがどの程度かはわからない。普段あなたがコンピューター画面上にある黄色い点を見るときは、強烈な黄色いクオリアを感じるだろう。ところが、後で紹介するようなある種の錯覚が起こる条件下では、この黄色いクオリアを引き起こす同じ黄色い点も、クオリアを引き起こすのに失敗してしまう、つまり、黄色い点が消えてしまうことすらある! もちろん、錯覚がおこるような条件にさらされていない第三者の目には、同じ黄色い点はやはり黄色のクオリアを引き起こす。クオリアは脳によって生じているが、なぜ、どのように、こういったクオリアが脳から生まれてくるのか、それが問題なのである。
*離人症の一部は、クオリアの消失なのだろう。
更に問題なのが、なぜある種のクオリアには、それ特有の「感じ」があって、それ以外の「感じ」ではないのか、ということである。一体全体、何で、「赤い感じ」はあの赤い感じなのだろうか? どうしてあの「青い感じ」とは全く異なるのだろう? こういった「感じ」は、抽象的なものではないし、個人個人が勝手に決めたシンボルでもなく、人類にある程度は共通のものである。このような感覚は、生物にとって何か「意味」のあるものを表わしている。現代の哲学者たちは、ある事柄を表象する能力や、自分の外の世界にある何物かに「向かう」意識の能力、すなわち、「志向性」等の精神の能力について議論している。主観的な意識は、常に何か外界に存在するものについての意識である、ということを指して「志向性」という。例えば、あなたが赤いクオリアを持ったときには、それは外界の新鮮で美味そうなトマトに「向かう」、もしくは、トマトを「指し示す」。まるで、我々の主観である赤いクオリアからトマトへの矢印が出ているかのように。意識が外界の何かに向かう、この矢印のような働きのおかげで、主観者の内部にある表象が外界の何かに対し「意味」を持つことができるのだ。脳を構築する広大な神経の網目のようなつながり、ニューラル・ネットの電気的な活動から,「意味」がどのように生じてくるのかという謎は、非常にミステリアスである。ニューラル・ネットの構造や、それらの接続パターンが、確実に役割を果たすというのは分かっている。しかし、具体的にそれらがどうやって「意味」と「志向性」を生み出すのだろうか?
*「志向性」は現象学でよく言われる言葉だけれど、ここで何か関係があるかな?
人間および多くの動物が、状況や行動に応じてクオリアを経験するのはどうしてなのだろうか? なぜ人間は、全く無意識のままに生きて、子供を生んで、育てていかないのだろうか? そんな無意識のままの人生なんて、まるで、夢中歩行して人生を送るようなもので、主観的には、生きていると言えたものではないだろう。それでは、進化論的に言って、意識が存在する理由はなんだろうか? 人間という種の存続に、他人とわかちあうことのできないクオリアはどのような利点をもたらしたのだろうか?
*主観的クオリア体験がなくても、多分、立派に生きていけるでしょうね。
ハイチに伝わる伝説に、死者の蘇り、ゾンビが登場する。ゾンビは呪術師の魔力によって、操るものの意のままに動くという。哲学の世界では、「ゾンビ」というのは架空の存在として思考実験に用いられている。外見上の立ち居振る舞いは、全く普通の人と変わらないが、意識、感覚および感情が完全に欠けたもの、それが哲学用語としての「ゾンビ」である。哲学者が思考実験をするときには、全く無意識であるにもかかわらず、あたかも普通の人間のような経験があると嘘をつくように企んでいるゾンビを考えることもある。
*
そのようなゾンビを想像するのは非常に難かしいが、その事実こそが、まさに、意識が日常生活に欠かせない重要なものだということを示している。かのルネ・デカルト(Rene Descartes)も自己の存在証明時に言ったではないか。「私は、『私に意識がある』ことを疑いなく確信できる」と。我々には常に意識があるわけではない。夢を見ていない睡眠中、全身麻酔にかかっている間はもちろん無意識だ。だが、本を読んだり、喋ったり、ロッククライミングをしたり、考えたり、議論したり、単に座ってぼーっと景色の美しさに見とれたりする時などは、たいてい我々には意識がある。
*
脳の電気化学的な活動のほとんどは意識にのぼらない。この事実を認めると、単に、意識がなぜ脳から生まれてくるかという漠然とした問題が、一歩踏み込んだものになり、なぜある特定の電気化学活動だけが意識を生み出し、他の活動は無意識に処理されてしまうのか、というより具体的な疑問が湧いてくる。ものすごい数のニューロンの猛烈な活動が起こったからといって、いつも、感覚を覚えたり、何かのエピソードを思い出したりするわけではない。このことは電気生理学による実験によって証明されている。例えば、反射的に動くときなどがそうである。なんとなく、ぱっと足を振り払う。そのあとで、自分の足の上を、虫が這っていたことにに意識的に気がつくなんてこともある。つまり、視界に入った虫を発見し、そして勢いよく足を動かすという、高度な計算が無意識のうちに脳内で、まるで反射のように行われることがあるのだ。あるいは、毒蜘蛛や銃などの生命を脅かす危険のあるものが視界に入るだけで、たとえそれらを意識しなくても、身体が先に反応することもある。それらの危険物に対する恐怖が意識にのぼる前に、手のひらは汗ばみ、心臓の脈拍および血圧は増加し、アドレナリンが放出される。蜘蛛や銃の発見だけでなく、それらが危険なものであるという分析、そしてその分析に対しての反応までもが無意識のうちになされることがあることの一例である。現在のコンピューターでも手に負えない、知覚から行動までの複雑な一連のプロセスもまた、迅速にかつ無意識に起こっている。実際、サーブを返したり、パンチをよけたり、靴ひもを結んだりといった、複雑な一連の動作は、繰り返し練習をつむことで、無意識に素早く実行できるようになる。無意識の情報処理は、精神の働きのうち非常に高次のものまでも含んでいる。大人になってからの行動が、意識的な思考や判断を超えて、幼年期の経験(多くの場合、精神的外傷、トラウマなど)によって、深いところで決定されることもある、とジーグムント・フロイト(Sigmund Freud)は主張した。高次の意志決定および創造的な行動の多くが無意識のうちに生じている(この話題は18章でより深く扱う)。毎日の生活を彩る出来事の非常に多くが意識の外で起こっている。このことは、臨床研究において見られる患者の振る舞いによって、非常に強く支持されている。神経障害を持った患者、D.Fさんの奇妙なケースを紹介しよう。彼女は、形を見たり、日常生活にありふれた物の写真を認識することができない。それにもかかわらず、驚くべきことに、ボールをキャッチすることができる。郵便受けポストの入り口のような、細い横穴の向きを水平なのか垂直なのか意識的には分からず、口では「どっち向きかわからない」と答えるのに、彼女はさも簡単に、スリットへ手紙を入れることができる。このような患者の研究によって、神経心理学者は、人間の行動の中には、まるで反射のように無意識に行われるが、大脳によって高度に制御される必要がある複雑なものがあることを突き詰めた。こういった脳を介した反射のようなものを、脳の中の「ゾンビシステム」と呼ぶ。もちろん、ゾンビシステムは一般の健康な人の脳にも存在する。これらのゾンビシステムは、視線を移したり、手を置いたりといった、決まりきった行動に限られており、通常かなり急速に作動する。ゾンビシステムが作動を開始するのに必要な状況や入力、すなわちボールがこちらに投げられたり、手紙を持ってスリットに向かったり、といった状況を意識的に思い出して作動させようとしても、それはできない。例えば、D.F.さんは、ポストに向かった後、たった二秒間目隠しされてしまうだけで、手紙を投函することができなくなってしまう。意識的には、どんな角度だったか思い出せないのだ。ゾンビシステムについては、本書の12章、13章で、もう一度詳しく扱う。
*ゾンビシステムこそが基本で、自意識はその上に付加的に形成されたものだと考えることができる。
このようなゾンビシステムが脳の中に備わっていることを知れば、「なぜ、脳は高度に専門的なゾンビシステムをたくさん集めただけのものではないのか」という疑問が湧いてくるだろう。もし我々がゾンビシステムの寄せ集めだったならば、人生は退屈なものかもしれない。しかし、たくさんのゾンビシステムが簡単に、そして、素早く働くのならば、どうして意識など必要なのだろうか? 意識には生存に役立つなんらかの機能があるのだろうか? 将来の一連の行動の予定を立てたり、その予定を吟味したりするときにこそ、色々なことに応用がきき、かつ、計画的な情報処理モードである意識が必要なのだ、という主張を14章で展開することにしよう。意識は非常に個人的なものであり、他人と共有されることはない。感覚は、直接に誰か他の人に伝えることができないので、通常、他の感覚を経験するときの様子に例えたり、それと比べたりすることによってのみ、間接的に伝えられる。たとえば、あなたがどんな赤さを感じたのかを説明しようすれば、結局は、なんらかの赤の経験、つまり、「日没の時の赤」とか、「中国の国旗のような赤」とかを持ち出すことになるだろう。出生時から盲目の人にあなたが感じた赤さを説明するのは不可能に近い。二種類の異なった経験、例えば夕焼けの赤さと中国の国旗の赤さとの、類似点や細かな相違について語ることに意義はあるが、ある一つの経験について、他の経験を持ち出さずにそれだけについて話すことは不可能である。なぜ、我々はそういった手段を持たないのかもまた、意識の理解が進めば説明されるべき事柄である。
*
実はこの事実、我々が自分の体験している世界を直接他人に伝えることができないという事実を、我々の意識がどのように脳から生まれてくるかを研究するうえで、最も根本的なものとして重要視せねばならない。どのように、そして、なぜ、ある特定の意識的な感覚を支えている神経の物質的基盤(neural basis)が、それ以外の感覚を生み出したり、完全な無意識の状態をつくらないのか、この疑問に答えることが目標である。短い波長の光が青く、長い波長の光は赤く、あの青さ、あの赤さでそれぞれ全く異なる鮮やかさで感じられるように、どのようにして、それぞれの感覚に私たちが感じる独特な質感が構成されているのだろうか。また、どのようにして、自分の内部の主観的な感覚に、外界のものごとを指し示すような意味が与えられていくのか。また、なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか。どのように、また、なぜ、多くの行動は意識を伴わずに生じるのか。
*「なぜ感覚は個人的なもので他人と共有されないのか」というよりも、「感覚は個人的なものであるが、体験と神経ネットワークに共通性があるため、普遍性があり、共有できるものである。共有できない場合に、病理的現象が生じる。」と私は考えている。
1.2 どんな答えがありうるか
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17世紀中頃に、デカルトの「人間論」(Traite de l'homme)が出版されて以来、哲学者や科学者は、現在の形の心脳問題についてあれこれと考えを巡らせて来た。しかし、1980年代まで、脳科学におけるほどんどの研究は意識の問題を完全に避けてきたのである。ここ20年間でその潮流に変化が生じ、哲学者、心理学者、認知科学者、臨床医、神経科学者、さらにはエンジニアまでもが、意識について学術論文や本を多数発表するようになった。これらの本は、現在の科学的な知見を持って、意識がなぜ脳から生じるかという問題をあらためて「発見」したり、「説明」したり、意識について「再考」し直したりすることを目的としている。本のタイトルも「意識を再考する」だったりする。これらの本は、純粋な思索だけに頼ったものが多く、ニューロンの集合体である脳から意識がどのように生じてくるのかを実際に科学的に発見するためには、どのようにして真摯な研究を行っていけばいいのか、という系統的で詳細な指針を示していない。そのため、本書で述べるような、意識が脳からどう生じてくるかの謎を解くための様々な研究のアイデアには、これらの本の内容は全く役に立っていない。
*1980年代から、ここ20年で、状況が変わったと述べている。本当に変わったと思う。20年前、Thomas Nagel「コウモリになるとはいったいどういうことか?」が提出され、エックルズとポパーが共著で「三世界」の構図を示し、一方で、唯物論者たちは、創発論でお茶を濁していたと記憶している。わたしはエックルズとポパーが好きだったが、理系の人たちには、軽蔑されただけだった。
フランシス・クリック(Francis Crick)と私がとるアプローチを紹介する前に、これまでの哲学者が考えてきた、これらの問題へのもっともらしい答えを、ざっと見渡してみよう。ただし、ここではあまり、深入りせず、それぞれの立場の単なるスケッチだけしか提供しないということを心に留めておいていただきたい。
*
意識は不死の魂に依存する西洋哲学の父、プラトン(Plato)は、人間というものを、「永遠不死の魂が、必ず死の運命にある肉体に閉じ込められた存在である」、と論じたことで広く知られている。プラトンはまた、イデア(idea)は、我々の肉体が存在しているこの世界とは別の、イデアだけの世界に存在し、それらは永遠であるとも言った。このようなプラトンの考え方(Platonic views)は、後に、新約聖書に組み込まれ、古典的ローマカトリックの魂(soul)についての教えの基となっている。意識の根源には物質世界には存在しない不死の魂がある、という信仰は、数多くの宗教に広く共有されている。
*これが一番安定した考え方なんだろう。何と言っても強力。
近代に入ると、デカルトが、「延長するもの」(res extensa)、例えば、物質としての実体を持った神経や筋肉を動かす動物精気(animal spirit)、すなわち現代科学では明らかになっている神経や筋肉の電気化学的な活動のこと、と「思惟するもの」(res cogitans)、すなわち、思考する実体、とに区別を付けた。デカルトは、res cogitans は人間に特有のもので、それが意識になるのだと唱えた。デカルトがこのように全ての存在をこのふたつのカテゴリーに分類したことが、まさに精神物質二元論(dualism)とよばれるものである。それほど厳格でない二元論は、すでにアリストテレス(Aristotle)や、トーマス・アクゥィナス(Thomas Aquinas)によって提唱されていた。現在の最も有名な二元論支援者は、哲学者カール・ポパー(Karl Popper) と、ノーベル賞を受賞した神経生理学者、ジョン・エックルス(John Eccles)だろう。
*20年前、「エックルズ先生も、歳をとって、死後のことを考えると、無神論的唯物論ではきついのだろう、歳をとればそんなものだ」、といった感じの文章さえあった。ポパーは三世界論だし、その中の意識経験についても、単純に精神世界のことを言っているのではないように思う。極端に言えば、物質世界と脳・意識と文化の三者が共進化する世界観といえばいいのだろうか。脳と意識を特に区別しているとも思えなかったけれど、私の考え違いか。物質世界と、個人精神内界と、人類が共有する文化の総体、この三者の関係といった感じのことだったように記憶している。脳と心の問題についてはどのように言っていただろうか?
二元論は、論理上一貫している一方、原理主義的で言葉どおりの二元論は、科学的な見解からすると不満が残る。特に面倒なのは、魂と脳とがどのように相互に影響をあっているのかという問題である。どうやって、どこで、その相互作用は起こるのか。おそらく、この相互作用は物理学の法則と両立していなければならないだろう。ところが、もしそのような相互作用を仮定すると、魂と脳の間でのエネルギーの交換がなくてはならないことになる。さらにそのメカニズムも説明されねばならない。これらは非常に問題である。また、二元論によると、魂の一時的な宿主である肉体が亡んだとき、すなわち、脳が機能を停止したとき、一体、何がこの不気味な存在である魂に起こるのだろうか。幽霊のように、超空間を漂うとでもいうのだろうか?
*
精神の本質としての魂という概念は、魂が不死であって、魂の存在が脳に全く依存しないと仮定すれば、矛盾が生じることはない。すなわち、魂とは、いかなる科学的方法によっても検出することのできない、ギルバート・ライルのいわゆる「機械中のゴースト」、とみなすのである。つまり、魂は科学の扱う範囲外であると考えてしまうということである。
*
科学的な手段では意識を理解することは不可能だ伝統的な哲学的態度に、ミステリアン(Mysterian)と呼ばれる流派がある。ミステリアンは、意識の問題は複雑すぎて人間の理解の範疇を越えると主張する。この流派には二種類ある。一方は、「どんな認知システムもそのシステム内部の状態を完全に理解することができない。同じように、我々の脳は、脳内部から生じる意識の状態や仕組みは理解できないのだ」という理論的な主張である。もう一方は、現実的ではあるが、悲観的な主張である。愚かな人類には、知性に限界があり、既存の概念を大きく変更することはできない。類人猿が一般相対性理論を理解できないように、意識がなぜ脳から生じるかという問題は、人類にはとても及ばない問題なのだ、というものである。
*脳は脳を理解できるかという命題がある。
*一個のニューロンが、一個のニューロンを「理解」するとすれば、あるいは、一個のシナプスの状態を、一個のシナプスで「理解」するとすれば、結局、そっくり同じものができるだけで、「理解」とはいえないだろう。脳よりももう一次元、複雑さの程度の高次なものでなければ、脳を理解できないだろうとするもの。
*なんとなく分かるけれど、でも、脳は、そのように理解しているのではなくて、抽象化したり、輪郭をつかんだりして、圧縮して理解しているのだ。海を構成する分子のすべてをひとつひとつ理解しているわけではないが、H2Oがいっぱいあって、ナトリウムと、……なんていう具合に「理解」するので、そのように、「情報圧縮」しても理解はできるのだと思う。
また別の哲学者は、「ただの物質に過ぎない脳が、意識をどのように生じさせることができるか、全く予想もつかない。ゆえに、単なる物質である脳の中に、意識が生じてくるメカニズムを科学的に研究しようとしても、絶対に失敗するに違いない」と断言している。こういった主張は、彼等の無知を晒しているにすぎない。現時点で、脳と意識にはつながりがあるということを強く支持する議論がないからといって、つながりがないことを証明することにはならない。もちろん、これらの批判に答えるためには、科学こそが、このつながりを支持するような適切な概念や証拠を提出していかねばならないのだが。
*
将来、意識を生み出す脳の仕組みを解明することは、単に技術的に難しいだけでなく、原理的に不可能だと判明することがあるかもしれないが、現時点ではそのような結論を出すのは時期尚早というものだろう。神経科学は、非常に若い科学分野である。息をのむような速度で、常により洗練された方法によって、新しい知識が蓄積してきている。神経科学の発展が翳りを見せる前に、そんなに悲観的なってしまう必要はない。意識がいかに脳から生まれてくるかを、ただ単にある学者が理解できないからといって、この問題が人類の知性の限界を越えているというわけではない!
*今のところ、原理的に不可能だと証明されてはいない。可能だと証明されてもいない。
意識は錯覚である
脳と意識の問題があまりにも難しいので、哲学者の他の流派には、一般には理解しがたいことだが、なんと、その問題自体を否定しまうものもある。この種の意識問題を否定してしまう哲学流派は、行動主義(behaviorism)に起源を持つ。現代の哲学者の中では、タフツ大学(Tufts University)の哲学者ダニエル・デネット(Daniel Dennett)が最も影響力を持っている。『解明された意識(邦題)』(Conscoiusness Explained)で、デネットは、私たちが普段持っている感覚、クオリアは、手のこんだイリュージョン、幻想、なのであると論じている。感覚入力システムと行動出力システムとが共謀し、人類の社会構造と脳の学習がその幻想をサポートしているという。デネットは、人々が、自分に意識があると言い張っていること、その事実をまず認めている。そのうえで、「私には意識がある」と人々がずっと信じ込んでいる事実には説明が必要だ、ということも認めている。但し、デネットによると、この信仰は「間違っている」。その一方で、どのように脳から生じるのか非常に理解が難しいクオリアを、どれだけ鮮明に人々が主観的に感じようとも、それは幻想なのだとデネットは言い切ってしまう。彼は、意識を研究しようとする通常のやり方は、非常に間違っていると考えている。
*わたしはこの流派に近い。
*デネットがイリュージョンと言うとき、何を意味しているのか、吟味しなければならない。吟味してみれば、納得する部分があると思う。
通常意識がどうやって脳から生じるかを考える場合、意識を持つ主体の側からみた、主観的な意識が問題になっている。この主観的な意識が、なぜその人だけにしか経験されないのか等、主観者の側からの疑問に対しての説明をしようとするのが通常のアプローチだ。このような説明の方法を、意識のファースト・パーソン・アカウント(主観者説明、First-person account)と呼ぶ。それに対して、デネットは、そのような説明ではなくて、意識を第三者の目で見たときに説明されるべき事柄(例えば、意識を持っている種はそうでない種に比べ、生存に有利な点はあるのか等)だけをターゲットにした、サード・パーソン・アカウント(第三者説明、 Third-person account)を目標にするべきだと主張する。「ある波長の光が網膜に影響を与え、被験者に『赤い光が見えた!』と叫ばせた。」という叙述は、第三者の視点でなされた客観的な叙述である。物理法則、化学法則から説きおこして、なぜ、脳の中のニューロンという単なる物質が起こす電気化学的活動が最終的に主観的な意識に至るのかまでを順を追って説明することはあまりに無謀に見える。そのため、最後の部分、すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、科学的に存在しないものは説明できないという立場をとる。
*「すなわち脳から意識が生まれてくる部分を幻想だと見なし、科学的に存在しないものは説明できないという立場をとる。」という解説は正しいのか?
デネットによると、歯が痛いというのは、しかめっつらをしてこらえる、といった、ある行動をとること、もしくは、痛い側の口で噛まないようにしよう、とか、逃げて苦痛が去るまで隠れていたい、といった、ある行動をとりたいという欲求をもっている状態だと考える。これらの、デネットが「反応的な傾向(reactive dispositions)」と呼ぶ、外部から観察され、研究しやすいものは、現実に存在するものであり、それがどうして起こったのか、その後何が起こるのかについては、説明がなされなければならない。しかし、苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であって、その捉えがたい感覚は存在しないとする。
*「苦痛の不愉快さそのもの、これは幻想であって、その捉えがたい感覚は存在しない」というように、「主観的な意識」「主観的な経験」を消去してしまったら、不思議は消えてしまう。やはりここをきちんと説明したいと思うのは、著者に賛成。
日常生活において主観的な感情が中心的位置を占めていることを考えると、クオリアや感情が錯覚であると結論づけるには、相当量の実際的な証拠、科学研究を必要とする。哲学的な議論は、論理的な分析と内省(introspection)、すなわち 自分の内部を真剣に見つめることに基づいており、科学的方法に比べ 現実世界の様々な問題を取り扱うには全く力不足である。哲学的方法では、微妙な論点を決定的に論じ、定量的に決着をつけることはできない。哲学的な方法論が、最も効果を発揮するのは、問いをたてるときである。悲しいかな、長い歴史を持った哲学は、自らがたてた問いに答えたためしがほとんどないのである。私が本書でとる中心的なアプローチは、ファースト・パーソン・アカウントを、乱暴ではあるけれども、人生における明らかな事実と見なして、それを説明しようと努力するというものである。
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意識の解明には根本的に新しい法則が必要とされる
一部の科学者たちは、脳に関しての更なる事実の積み上げや原理の発見ではなく、新しい科学法則こそが、意識にまつわる謎を解明するのに必要であると主張している。オックスフォード大学のロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)は、名著『皇帝の新しい心(邦題)(The Emperor’ s New Mind )』の中で、「現代の物理学では、数学者の直観(大きくは一般の人々の直感も含む)がどのように生じるのかを全く説明することができない」と論じている。近い将来のうちに公式化が期待されている「量子重力論」がこの問題を解く鍵であり、どんなチューリング式 (Turing)ディジタルコンピューターもこなすことのできないプロセス、数学者の直観が、人間の意識によって、どのようにして生み出されてくるかが、「量子重力論」によって説明されるだろう、とペンローズは信じている。アリゾナ大学ツーソン校の麻酔専門医スチュアート・ハメロフ(Stuart Hameroff)とペンローズは、体中すべての細胞にある、微小管(マイクロチューブル、 microtubles)に注目している。微小管は集まると、外部の酵素の働きなどを必要とせずに、勝手に組みあがって大きくなるという性質がある。微小管が多数のニューロンをつないで、量子の共鳴状態(coherent quantum states)をつくるのに中心的な役割を担うのだ、とハメロフとペンローズは提唱している。
*ロジャー・ペンローズの本も、分厚い本で、読み始めるまで、億劫、そしてこの手の本は、大部分が既知の基礎的な事柄のⅢ確認になっているので、その点でも退屈。ペンローズ氏の確信は、とても同意できるものではない。
*おおむね、学者仲間から見放された時点で、一般向けの本を書いて、さらに失望させてしまうものである。
数学者は一体どこまで非計算論的な真実を直観的に理解できるのかという問題や、コンピューターを用いて数学者の直観を実現できるのかということに関し、ペンローズは、活発な討論を巻き起こした。しかし一方で、高度に秩序だった物質である脳の中で、ある種の動物の脳には少なくとも意識が生じてくるのはなぜか、という問題に量子重力(quantum gravity)がどう関わってくるのか、はっきりしたことを何も説明していない。確かに、意識と量子重力はそれぞれが不可解な側面を持っている。しかしだからと言って、片方がもう片方の原因なのだ、と結論付けるのは、恣意的で根拠がない。巨視的な量子力学的効果の事例が、脳内において一例も報告されていない現在、これ以上彼らの考えを追求することに意味はないと思われる。
*そうですね。トンデモ系。