諸物価高騰と過食症
時間が遅れてもいいから、
給料の値上げにつながれば、
全体としてインフレが一回りしたということになり、
財産を持っている人には有利である。
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食料品が値上げされれば、
過食は減るだろう。
そのかわりにどのような不安解消行動をとるか、注目される。
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この機会に禁煙もしたいとかアルコールも我慢したいとか、
昼の外食はやめるとか、
いろいろと出てきそうだ。
家に帰って夫婦で仲良くしているのが一番安上がりである
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過食・嘔吐のあとの虚しさと絶望感を考えれば、
食糧を買うとき、その想像力が働かないものだろうか。
ああまたこれを全部食べて全部吐くのだと思えば
買う事を思いとどまることができるのではないだろうか。
しかしそうは出来ない様子だ。
買うときにはすでに過食の衝動が脳を全面的に支配しているようだ。
食べたい人格Bに占領されていると多重人格モデルで言ってもいいくらいだ。
ならば、それよりももっと前、過食の衝動が脳を支配する前に、
食糧を買わないように、冷蔵庫を満タンにしないように、
注意すればいいのだ。
しかしそれも出来ないようだ。
結局、食べるためならどんな手でも使う。
トイレの中で菓子パンを泣きながら食べている。
アルコール症の人たちがアルコールのためなら手段を選ばないのと同じである。
この点で過食は嗜癖に似ている。
過食症の人が本当の意味でしらふのことがあるのだろうか。
また、過食はOCDに似ている。
合理的でない反復があるからだ。
苦痛であるか快感であるかは、場合による。
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コンビニのおでんは、ふたをしていなくても大丈夫なものなのだろうか。
ふんわりとした母性的な雰囲気
広沢正孝先生が論文の中で書いていること。
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統合失調症に対しての母性的治療環境が、
現代のクリニックでの若い人の神経症的な訴えの場合にも有効である。
Gemeinschaftの崩壊 → 「心の通った共同体・機能ではなく人間全体としてかかわる共同体」の崩壊
Gesellschaftへの移行 → 目に見える結果主義、機能主義
インターネットはGemeinschaft的なものをますます崩壊させた
父母子の三者関係が希薄になり、個の確立ができなくなった
むしろ母子の二者関係が求められている、個の確立はできない
治療者が個の確立を自分の価値観として持っているとして、
そのことは治療に際して、ひとつの価値観を押し付けているということになるのかどうか
中年期以降の患者さんには
自我を中心にすえ、母性的雰囲気を基盤に安全を保障する方法でよい
若年者の場合には
ふんわりとした母性的雰囲気の精神療法がよい
ゲマインシャフトの要素が希薄化→人々は孤立→統合失調症の基盤を形性→この点で
現代の若年者には、ふんわりとした母性的雰囲気の精神療法がよいことになる
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精神分析的な意味で言う
父母子の三者関係=社会 の形成は
相撲の花田一家で典型的に見られた。
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昔 Gemeinschaft=心の通った共同体
いま Gesellschaft=結果主義
という対比と
昔 父母子=三者関係=社会
いま 母子=二者関係
という対比とが
うまく接合されない印象。
一見すると、
Gemeinschaft=心の通った共同体=母子=二者関係=個の確立不全
Gesellschaft=結果主義=父母子=三者関係=社会=個の確立
のように思えるので、
接合がうまくいかない。
治療としても、個の確立を個人的価値観として持っていて、個の確立を目指すなら、
Gesellschaft=結果主義=父母子=三者関係=社会 の軸を強調すべきで、
ふんわりとした母性的な雰囲気は成長促進的ではないことになる。
治療の場合に安心感のほうが大切という場合には、
Gemeinschaft=心の通った共同体=母子=二者関係
を強調すればいいはずで、とりあえず、そちらのほうが大切と言うことになる。
精神療法場面で
Gesellschaft=結果主義=父母子=三者関係=社会 の軸を強調したとして、
内面の「成熟」または「土壌」がない場合には、
結局実らない。
「成熟」という言葉自体が価値観を含んだものになっている。
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インターネットと携帯以降、
個の確立や社会規範や人生の目標が変貌していると感じる。
一般教育による平民の識字と印刷技術が夏目漱石を生み、個の確立が輸入された
いま、学校を尊敬しない、本を読まない人も増えていて、
個人のあり方も社会のあり方も、新しい局面のような気がする。
Gemeinschaftはなくなって、
Gesellschaftは機能しているだけで、人間は深くコミットしていない。
誰でもいい仕事を派遣でやっている感覚。
そのかわり、「インターネット携帯関係」がある。
三者関係はなくなって、二者関係もなくなっている。
とりあえずの二者関係を求める人が増えている。
二者関係の濃密なものが境界性パーソナリティである。
その場合、まず適切な二者関係を経験してもらうことが治療的なのかもしれない。
インターネット携帯が社会全体の退行を促進しているようだ。
二者関係の先にある三者関係ははるかに遠のいている。
夏目漱石よりも村上春樹という時代なのだろう。
個の確立とは別の軸で動いているようだ。
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この先にあるのは、
家族という単位の崩壊ではないだろうか。
遺伝子と財産と法律の単位である家族は、
そのまま資本主義社会の消費単位であった。
しかし現代では個々が消費主体となっている。
そしてインターネット携帯を通して、趣味などで結びつく。
その仲間を家族よりも大切にする。
コマーシャルが新しいターゲットにするのは
この結合だろう。
父母子ではなく母子でもない、別の結合。
たぶん、もっと昔、地域の農業共同体にあったような、
人間関係。
共同育児しているような感覚。
そのようなものに適応するので、
二者でも三者でもない関係である。
個の確立ではなく空気を読みあい読ませあう関係。
新しくもあり、古くもある。
キブツのようなもの。
インターネット携帯で自己開示するとき
危険すぎるので薄く膜をかける。
一種の演技をする。
ますますゲマインシャフトの感覚から遠ざかる。
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お互いが出自を知り合い、学校も同じで、子供の頃遊んだ同士が、
村祭りで共同作業をするとき、それがゲマインシャフトである。
現代では「派遣社員」が「会社」に行って、
「メール」で指示された仕事を終わって、帰る。
メールは中国やインドにも伝えられていて、
同じ仕事がどこでもできる。
それがゲゼルシャフトである。
人間は二者関係を経験し、発達の途中で三者関係に直面し、
それを内面化することで社会化し、個の確立に至る。
現代では二者関係で始まった人生がそのままインターネット携帯関係に接続されている。
三者関係には向かわない。
同じ家に住んでいても、
違うテレビを見て違うメールアドレスで通信する。
価値観と人生観の伝達もない。
経済単位としてかろうじてまとまっているだけ。
既に言葉が通じない。
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そう考えると、
インターネット携帯関係に生きている人が、ゲゼルシャフトに属して働いている社会といえる。
三者関係からの個の確立を促すとすれば、
まず二者関係を、というのが大切になるのも分かる。
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母子関係のときにいつも思うが、
子供が男と女では母親の態度も違うのではないか。
エディプスコンプレックスとエレクトラコンプレックスの違い。
男の子にとって母親が一番最初の女性なのだ。
男の子にとって父親は最初のライバルである。
女の子にとって父親が一番最初の男性というわけには行かないだろう。
女の子にとって母親が一番最初のライバルというのは、異論はない。
最近では仲良し母子ばかりが増えたけれど。
母娘関係は、性的含みがなくて、ただお世話する・されるという、関係だ。
女性とは何という物質的で動物的なものなのだろう。
男性はいつでもエロスで動いているのに、
女性は人生の最初にエロスなしのケアを受ける。
エロスなしの愛情。
エロスなしの母性から、エロス濃厚にありの母性まで、
幅があるのだろう。
こうして見てくると女の子と男の子はかなり違った世界を生きているようだ。
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ふんわりとした母性というが
いまどきそんなものがどこにあるだろう
御伽噺の中にあるだけのような気がする
最近の母親はふんわりなんかしていない