Byproductとしての精神療法
柔らかい場所を何度も繊細にたどりなおして励起させている。
その果てに見えるのは、
いつもの安定した診察風景である。
診察風景の重層的ラーメンバウを
忘れ去るまで意識すれば、
三度目に、いつもの安定した診察風景が始まる。
いずれにしても行為はひとつである。
その意味付けを更新し、廃棄し、冒険の後に、
いつもの風景の中で静かに生きている自分を発見している。
映画をくり返し見る感覚に近い。
私たちが今手にしている大切な共有物、
これもいつかの誰かのByproductだった。
*****
臨床精神医学34(12):1699-1707、2005
Byproductとしての精神療法
内海健
ある中年の男性が、家族に伴われて受診した。
抑制も強く、生気的な悲哀感情もある。それほ
ど迷うことなく、内因性うつ病と診たててよさ
そうである。悲観的な微小観念もあり、「情け
ない」、「迷惑をかけて申し訳ない」という苦悩
が重たい口から漏れ出る。休養してしかるべき
状態である。場合によっては入院した方がよい
かもしれない。
治療者は「うつ病」であることを告げ、仕事
を休むように指示した。しかし患者はなかなか
首肯しない。「これ以上迷惑はかけられない」、
「自分が働かないと家族が困る」とかたくなで
ある。
この半年あまり、患者の仕事は多忙を極めて
いた。折からの昇進もあり、責任も感じていた。
やりとりを重ねる中で、治療者は「働きすぎて
身体をこわしたのだ」といって、ようやく説得
した。
ごくありふれた診療場面といえるだろう。こ
とさら「精神療法」というほどのものでないか
もしれない。とはいえ、ここで展開されている
ことは、単なる問診による情報の収集、診断、
そして医学的な見解の伝達にとどまるものだろ
うか。そうではあるまい。
「働きすぎて身体をこわしたのだ」というこ
とばに着目してみよう。しばしばこうした局面
で使われる常套句であり、経験的には、大きく
事態を損ねることはまずない。うつ病に限った
わけではないが、特にこの疾患の場合、なるべ
く身体に近いことばの方が有効である。
いささか冗長になることを承知のうえで、こ
の発言をもう少し検討してみよう。まず内容は
どうだろうか。「働きすぎた」というのは事実
である。実際、この患者の場合、発病に前駆し
て過労状況があった。ここから「過労でうつ病
になった」という結論に進むのは、微妙な一歩
である。医学的因果関係が成り立つかどうかは
留保すべきである。むしろ厳密には成り立たな
いかもしれない。そこで含みをもたせて「身体
をこわした」とつないだ。蓋然性は残るものの、
発言の内容ほとりあえず妥当なものとしてよさ
そうである。
では、「働きすぎて身体をこわした」は、い
わゆる「事実確認的発言」なのだろうか。患者
の状態に関する一連の記述の束があり、それに
ついての要約なのだろうか。そうだとすると、
患者はこの事実確認をもとに、疾病であること
を認識し、休養することを妥当なものと判断し
た、ということになる。
すでにうんざりさせられている人もいるだろ
う。まともな臨床家なら、このようなことは考
えるべくもない。「働きすぎて身体をこわした」
は、「行為遂行的発言」なのである。
1 ことばは必然的に力を持つ
ここでいう「事実確認的発言(constatative
utterance)」および「行為遂行的発言(performative
utterance)」は、イギリスの言語学者オー
スチンの分類に基づくものである。前者は、
従来の陳述文に該当するものであり、対象や事
象についての一定の意味づけや判断をする発話
である。後者は、オースチンが新たに取り出し
た発言形式であり、発話することが、それ自体
で相手に対して何らかの行為を遂行するもので
ある。例えば「あなたと結婚する」、「お金を返
すことを約束します」などがその例としてあげ
られる。
オースチンの論は、言語学に大きな足跡を残
したものであるが、私見では、次の2つの点で
問題が残る。そしてそれぞれが、本論の重要な
論点と関連する。
1つは、「事実確認的発言」と「行為遂行的発
言」を厳密に分けることはできないのではない
か、ということである。とりわけ純粋な事実確
認的発言というのは、ありそうにもない。
例えばある人が「窓が開いている」といった
としよう。それは「寒いから閉めてほしい」と
いうことを意味しているかもしれないし、開け
っ放しにした相手の無作法をなじっているのか
もしれない。いずれにせよ、ただの物理的な記
述にとどまるものではない。「雨が降っている」
といった、一見事実確認的にみえる発言でも、
相手にいう以上は、すでに何らかの働きかけに
なっている。どのような発言であれ、それが発
言である以上、何がしか行為遂行的である。
いま1つは、行為遂行的発言に関するもので
ある。オースチンによると、それが成立するた
めには、いくつかの付帯条件がある。例えば、
①ある一定の慣習的(conventional)な効果を持
つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存
在しなければならない。②行為遂行的発言がな
される際の相手の人物、および状況が適切でな
ければならない、などである。オースチンによ
ると、これらが満たされなければ、行為遂行的
発言は「不発」(misfire)に終わるという。
しかし発言はしばしば不適切な状況というリ
スクを背負っている。というよりも、発言はつ
ねに誤読される可能性にさらされ、適切な行為
遂行は果たされないのではないだろうか。しか
も、このこと自体が、発言そのものの、発言の
持つ力の、淵源となっているのではないだろう
か。これらはデリダがオースチンや彼を擁護し
たサールに対して、繰り返し指摘したことであ
る。
もちろん、治療者の発言は、事実に即したも
のでなければならない。事実とかけ離れたこと
を述べて効果を得た場合には、もはや医学とい
う枠組みを逸脱している。すでに詐欺に近い。
それゆえ、精神療法の治療的な効果というもの
は、医学的言説の副産物(byproduct)として位
置づけられるべきものである。
とはいえ、全く中立的な医学的見解の伝達な
どがあったら、それは味気ないものとなるだろ
う。そのようなものは、患者を治療に結びつけ
ることはできない。それ以前に、治療的でない
発言などは、臨床の場ではありえない。徹底的
に中立な発言をしても、それは必然的に治療的
な意味あいを持たされる。例えば、患者はそう
した発言を、関係を拒否するメッセージとして
受けとるかもしれない。また冷厳な医学的宣告
を受けたと感じるかもしれない。あるいは近づ
きすぎた治療者と一定の距離が得られるかもし
れない。ともかくも無関与ではありえないの
だ。
つまり、byproductといったが、それは必然
的に発生する。よきにつけあしきにつけ、医療
的言説は精神療法的な効果を免れないのであ
る。
2 ねらったことは実現しない
ここで転倒が生ずる。そもそもbyproductで
あったはずもものが、一転して主役に転ずるの
である。つまり、単に医療的言説に寄生したも
のではく、「精神療法」という独自のジャンル
を主張し始める。そしていつのまにか、自分が
byproductであったことを忘れるのである。
もっとも、次のように反論されるかもしれな
い。もともと医療に依存しない精神療法がある
ではないか、と。確かにそうである。ここまで
の論は、あくまで医療の枠組みのもとにおける
精神療法について述べたものである。
だが、精神療法とは、その本性からして
byproductなのではないだろうかという疑念が
どこかにつきまとう。つまり、ある固有の方法
と目的があらかじめ設定されており、それを直
線的に目指すものなのだろうか。そうした発想
には、どこかに誤魔化しがあるように思われる。
というより、経験はそんな単純なものではない
ことを物語ってはいないだろうか。
例えば、強迫洗浄に苦しむ患者に、認知行動
療法を行うとする。曝露療法などによって一定
の効果が上がったとする。一見して、この治療
法の効果が直線的に発揮されたように思われ
る。では、誰がやっても同じだったのだろうか。
そのようなことはあるまい。なによりまず、技
術的な習熟が要求される。だが、それだけでも
ないだろう。おそらくは曝露を行うまでに、勝
負の帰趨はある程度ついている。強迫心性を持
つ患者が思い切ってこの治療に身を委ねると
き、すでに治療は道半ばに達しているのではな
いだろうか。
認知行動療法に先立って、治療者は患者の症
状の起こり方や、それに伴う不安について細か
く聞いていく。そして一定の感情移入が可能に
なり、そのうえで、介入のポイントが見えてく
る。患者も少し自分の症状から距離がとれるよ
うになる。こうした一連の行程の中で、すでに
患者には大きな変化が起こってくる。患者個人
というより、関係性が変わってくるというべき
なのだろう。どのような治療であれ、その治療
を患者が受け入れたとき、すでに半分勝負はつ
いている。
患者を理解しようとして、一生懸命聴き、そ
して訊ねたとする。しかし結局のところ、理解、
あるいは了解というのは、どこかで壁にぶつか
る。それは病理による場合もあれば、他人の心
という壁によることもある。結局、理解すると
いう目的は達せられずに終わる。だが、患者の
状態がよくなった。なんとしてもわかろうとす
る治療者の気持ちが伝わったのである。この場
合も、効果はbyproductである。
では、関係性の改善を目標にすればよいでは
ないか、と考えることもできるかもしれない。
しかしそれはどのようにすれば達成されるのだ
ろうか。直線的に求めて得られるのだろうか。
「治療関係を大切にして」などという文言が
空々しく響くのも、同じような理屈である。こ
の関係の改善とは、その療法に真摯に取り組む
中で、その効果として、はじめて生み出される
ものである。巧んで得られるものではない。
3 真意は伝わらない
話を元の場面に戻そう。「働きすぎて身体を
こわしたのだ」という文言は、患者に受け入れ
られ、療養が開始されたとしよう。その効果と
して、治療を軌道に乗せることができたのであ
る。この程度のことなら、巧んでも行えそうな
気がする。うつ病の患者を休息に導くフレーズ
として、一般化が可能であるように思える。つ
まりはbyproductではなく、直線的に効果をね
らえることもありそうである。
ところが、治療を開始してまもなく、患者は
労災の申請をしたいといい始めた。自分は働き
すぎて身体をこわしたのだから、当然の権利だ
という。さらには働かせすぎた会社に謝罪をす
るように求めた。そして、これも当然のことで
あるかのごとく、治療者の口添えを求めた。と
いうより医学的なお墨付きを要求したのであ
る。いつもより時間をかけて面接したが、躁転
したというわけではなさそうである。
治療者は、いささか鼻白む思いにさせられる。
もちろん明らかに労務災害であれば、そうした
要求に応えることにはやぶさかではない。だが、
会社にそれはどの瑕疵があったかどうか、定か
ではない。治療者は、まずは療養に専念するよ
うに患者に勧めた。いったん回復の見込みが立
つまではペンディングするように助言した。し
かし患者は、「『働きすぎて身体をこわした』と
いったのは、他ならぬ先生、あなたではないか」
と譲らない。
いささか極端な例を想定しているが、この中
には、精神療法とは何かを考えるに際して、重
要なことが物語られている。まず、「働きすぎ
て身体をこわした」というのは、科学的で中立
的な言明ではなかったことが、改めて確認され
る。いかなる言語行為も、治療という文脈に依
存したものであり、その文脈のもとで効果を持
つものであることがわかるだろう。
厳密にいうなら、フィクションだったのであ
る。ただ、患者を回復させるという効果を持つ
がゆえに、過労と発病の因果関係は、科学的な
検証なしでも、正当化されてしかるべきものだ
ったのである。
治療者が鼻白んだのは、治療的言明を別の文
脈に移し変えられたからに他ならない。患者は
賠償や謝罪という、司法的な文脈に転用した。
すなわち医療をabuseしたのである。当たり前
のことだが、治療には枠というものがある。そ
れが露骨に破壊されたのである。例えば境界型
パーソナリティ障害のように、この枠を侵犯す
ることが病理の1つの特徴とする症例が、いか
にやっかいなものであるかが、改めてわかる。
というより、この枠の侵犯された感触から、し
ばしばわれわれはこの障害の診断をしている。
さらに重要なことは、われわれは精神療法の
効果をコントロールできないということであ
る。しかもそれは原理的に不可能である。たと
え治療者が、自分の発言の文脈をすべて把握し、
その効果を予測することができるにしてもそう
なのである。これがまさにbyproductであるこ
とのゆえんである。
上にあげた例ほどではないにせよ、われわれ
のメッセージは、患者の中で新たな文脈に置き
換えられる。あるいは新たな意味づけをされる。
真意というものは、そのまま伝わることはない
のである。
というよりも、自分の発言が、一切の加工を
されずに患者に受け入れられたとしたら、かえ
って伝わったという手ごたえは得られないだろ
う。その典型が「知性化」である。ある解釈を
提示して、「そうですね」と、何の浸透した感
触もない応答が帰ってくるとき、われわれは、
それが拙速に過ぎたことを思い知る。あるいは
いまだ治療関係の確立していない統合失調症と
の単調なやりとり。おそらく彼らは、あらゆる
発話行為が持つperformativeな力を、あたかも
無抵抗に受け入れるがごとくして、かろうじて
やりすごしているのだろう。
相手のことばを括弧入れすること、それに自
分なりの意味を与えること、あるいは転用する
こと、このことは他者が他者であること、視点
を移動すれば、自分が他ならぬ他者とは異なる
主体であることを保障するものである。
それゆえ、本当にいいたかったこと、つまり
は真意というものは、相手に完全に伝わること
はない。自己と他者の間には、決定的な切断が
ある。これは言語行為に必然的にっきまとうこ
とである。すなわち、完全なコミュニケーシ
ンの不可能性がコミュニケーションの可能性の
条件なのである。
真意が伝わらない。これでは治療も何もあっ
たものではない。そう思われるかもしれない。
だが、ここで真意というのは、あらかじめ話す
側で決定されているものとしての、考えや意図
のことを指す。そのようなものはないといって
いるのである。あると想定するから、それは常
に裏切られ続けなければならないのである。い
ずれにしても、精神療法は「出たとこ勝負」と
いう側面を免れえない。
真意とは、後からわかるものである。語りを
差し向ける相手に聞き届けられて、初めてその
意図が明らかになる。たとえそれが誤解であっ
ても、それをとおして、意味は私に帰ってくる
のである。またたとえ、相手がその場にいなく
とも、私は誰かに語りを差し向けるのであり、
そうしてはじめて自分がいいたいことを知るの
である。
後からやってくるということ、このことは何
も最初から意図はなかったのだということでは
ない。また、何か目標を立てたり、計画したり
することが無意味だといっているのではない。
おそらくは真面目な意図がなければ、よい
byproductも得られぬだろう。
では、冒頭の患者は、なぜ医師の「働きすぎ
て身体をこわしたのだ」をabuseしたのだろう
か。治療者はあらかじめこの発言がどのような
効果を生むのか、コントロールすることはでき
ない。相手によって解釈しなおされるのを免れ
ない。常に転用可能である。それはすでに確認
したことである。とはいえ、「いくらなんでも
限度というものがあろう」といいたくなるはど
の転用、乱用である。
実は、診察のおり、この治療者の外来は立て
込んでいた。少し急ぐ必要があった。患者が休
養することをなかなか首肯しないことに、いく
らかいらだっていた。誠実な働きかけにもなか
なか応じようとしないので、病状からくる頑固
さだろうと思いつつも、いささか腹も立ってき
た。広い意味で逆転移というものである。これ
だけでは説明できないだろうが、この逆転移は、
患者のその後の反応にあずかったようである。
4 フィクションとしての医療
視点、患者の側に移そう。発話に関する事
情は、それによって変わることはないだろう。
治療者も患者も同型としていけない理由は見当
たらない。ただ、そこに病理がどのように絡ん
でくるか、そこにそれぞれの疾病のあり方が反
映されている。
うつ病の患者は、自分の中に、いいようのな
いmorbidなかたまりを抱いてやってくる。「つ
らい」といえばっらいのだが、それで意を尽く
しているとは思えない。「さっぱりしない」、
「重苦しい」、「気分がすぐれない」。確かにそう
なのだが、どこか核心に届かない。この患者も
沈うつな暈のかかったまま、家族に促されて、
ようやく受診に至った。
もう一度、発話のダイナミズムを確認してお
こう。われわれはあらかじめ自分の考えや意図
を理解しているのではなく、他者をとおして、
その示差から、つまりは誤読されることから、
それらを受け取るのである。それは病状につい
ても同じである。そして、さらにそこに疾病特
有の事情が加わる。この場合はうつ病の病理で
ある。
患者は、他者から絶望的に隔たれている。こ
びりついた頭、けだるい身体、とどこおった意
志。それだけではない。世界が反応しないので
ある。かろうじて絞り出したことばに、社会は
応答しない。取り残された患者の中には、残響
として、「自分は無価値だ」というシニフィエ
がとぐろを巻くことになる。
同じことは、患者を取り巻く人たちにもいえ
る。彼らがいかに働きかけても、その思いは患
者に届いていかない。「うん」、「そう」、「わか
った」などといわれても、自分たちのかけたこ
とばが、浸透した手ごたえはない。患者は「情
けない」、「自分なんて、いない方がましだろう」
などと漏らす。「そんなことはないよ」と慰め
つつも、きっと聞いてはいないだろうなと、徒
労感にみまわれる。家族や友人だけではない。
心理療法家がかかわっても、事情はそれほど変
わらない。通常の精神療法は、うつ病に歯が立
だない。行き詰った患者、およびそれを取り巻
く人たち、それに応答するものとして、医療が
登場するのである。
暗礁に乗り上げた状況、それを医療はすべて
「病気」として括り出す。そして回復のための
ストーリーを与えるのである。ここでは、「働
きすぎて身体をこわした」が、この絶望的に隔
てられた病理を、丸ごとすくいとるように機能
するはずだったのである。そして、たいていの
場合、機能する。
医療という枠組みは、それほど強力である。
科学的な言説や、社会的な制度という確かなも
のによって、それは周到に組織されている。た
だ、いかに堅固にみえようとも、ある種の<フ
ィクション>である。だからこそ、患者は
abuseすることができたのである。
「医療がフィクションである」ということは、
にわかには受け入れがたいことかもしれない。
しかし、患者が示したのは、まさにそのことで
はなかっただろうか。疾病が、純粋に客観的で
中立的なものとすれば、それはいかなる文脈の
もとに置かれようとも、その内実は変わらない
はずである。だが、医師が伝えようとしたもの
と、患者が受け止めたものは、その様相を全く
異にしている。つまりは文脈依存性があるの
だ。
いや、患者は単に転用をしたのであり、さら
にいうなら、悪用したのだ。そう反論されるか
もしれない。疾病の真実は医療の側にあるのだ
と。こうした考え方は、さらに科学的思考によ
って補強される。つまり何らかの物質的、ある
いは生理的な実体が想定されることになる。だ
が、現実にはまだ確たるものは存在しない。た
とえ存在したにせよ、自分は過労の犠牲者にな
ったという患者のストーリーは依然として効力
を持つ。
最も問題なのは、「医療の側に真実がある」
という考え方である。少なくとも臨床の観点に
立つ限り、これは決定的に誤っている。もちろ
ん患者が何をいってもそれは正しいのだといい
たいわけではない。そうではなく、真実は、患
者をして医療に運ばせたもの、すなわち、「苦
痛」にある。しかもこの場合、苦痛の実体は、
いわくいいがたいものである。
この苦痛に形を与え、回復のためのストーリ
ーを提供するものが、まさに医療である。苦痛
にこそ医学における真実の場があり、それを癒
すものとして、そのレゾンデートルがある。た
だ、不幸にして、この症例の場合、苦痛はとら
えそこなわれた。患者は医療の提供するストー
リーを転用し、社会に異議申し立てするという
ことで、苦痛の解決をはかった。不幸なことだ
が、おそらくあまりよい転帰にはならないだろ
う。
5 現実を構成するフィクション
医療がフィクションであるということは、そ
れでもなお納得がいかない、といわれるかもし
れない。ただ、ここでフィクションというのは、
現実に対するところの虚構ではないことに注意
していただきたい。そうではなく、現実を構成
するフィクションなのである。
このフィクションは、全く恣意的であってよ
いというものではない。例えば「働きすぎて身
体をこわしたのだ」という医師のことばを再び
取り上げてみよう。これはフィクションである。
たとえ、疫学統計的研究によって、何ほどかの
有意差が確認され、実証されたとされても、事
情は大して変わらないだろう。かといって、そ
の代わりに何をもってきてもよい、というわけ
ではない。このフィクションは、苦痛という
「核」を持っている。少なくともそれをめがけ
るものでなければならない。そしてさらに、苦
痛を軽減し、回復を図るためのもの、というテ
ロス(=目的)がある。こうしたことによって、
初めてこのフィクションは妥当なものとされる
のである。決して何でもよいというわけではな
い。
さらに大切なことは、最初に苦痛があり、し
かるのちにそこにフィクションがやってくる、
ということにはならないということである。実
際の受療行動を考えても、そのように合理的な
対処をする患者は、ほとんどいないだろう。ど
うにもならなくなって、やむにやまれず、不承
不承……、さまざまなパターンがあるだろうが、
自分の苦痛を、それとして、冷静に提示する患
者はほとんどいない。
苦痛は、患者を医療に運ぶ。しかしそれは、
医療の与えるフィクションによって、初めて苦
痛として形を与えられるのである。あるいは、
初めて、自分が取りつかれていたのが苦痛とい
うものであったとわかる。
一定の深さの病態水準を持つ場合、精神疾患
においては、例えば頭痛や腹痛のように、人が
いて、そこに苦痛があるという関係にはなって
いない。「患者が苦痛を持つ」というような、
持主対所有物、主体対対象の関係になっている
のではない。医療というフィクションをとおし
て、初めてそのような関係が成立しうるのであ
る。
うつ病者の場合、彼の日常の現実を構成する
はずの、ここでいうところのフィクションが機
能していない。社会、組織、あるいは役割とい
ったフィクションが、もはや彼に応答しない。
この無意味となった、空虚となったあり方その
ものが、うつ病者の苦痛の本体なのである。そ
れゆえ、日常的な「癒しの言説」が通用しない
のは、当たり前のことなのである。
医療という強いフィクションをもってして初
めて、うつ病者に対して、別の現実、つまりは
「病」という現実が提供される。そして患者は
回復のためのストーリーの中に入る。
6 フィクションと病理
現実を構成するものとしてのフィクションが
どうなっているのか、ということは、さまざま
な病態で異なる。そしてそのあり方は、各疾患
に対して、医療的対応がどのようなものである
べきかを決定する指針となる。
うつ病の場合はすでに取り上げたところであ
る。では、例えば、統合失調症ではどうなって
いるのだろうか。
彼らの場合にも、フィクションは機能してい
ない。ただ、うつ病の場合とは様相を異にする。
ある意味で、統合失調症者は、フィクションの
フィクションたることに気づいている。という
より、「気づいてしまっている」、あるいは「気
づかされている」、といった方が妥当かもしれ
ない。
彼らにあっては、フィクションの機能そのも
のが作動しない。つまりは現実を生み出さない。
それゆえ彼らはフィクションの欺脆性に気づき
ながらも、それを現実化するもの、すなわち語
ることばを持たない。
それゆえ、彼らは意味を剥奪されている。意
味は、圧倒的に社会の側にある。フィクション
を共有する世間は、あたかも何でもお見通しの
ようである。彼らの秘密を握っているようにも
みえる。
そして、うつ病の場合と決定的に異なるのは、
別のフィクションによる補填がきかないという
ことである。とりわけ、医療というフィクショ
ンが、彼らには自分たちを救い出すものとして
作動しない。このもう1つのフィクションは、
新たな現実を構成するのではなく、侵襲するも
のとして立ち現れる。彼らを龍絡し、剥奪する。
そして「残余」が残らないのである。彼らがお
しなべて医療に対して拒否的であるのは、この
ことによる。
「残余」とは何か。それはまさに患者の主体
そのものである。主体を構成する「核」のよう
なものといってもいいだろう。それが、日常と
いうフィクションの中で析出しない。さらにま
た、医療という特別な制度の中でもそうなので
ある。むしろより侵襲的でさえある。とはいえ、
もし、彼らが自分自身で自分を与えるフィクシ
ョンをつむぎだそうとするなら、それはまさに
妄想となる。なぜなら、「意味」とは、他者の
中で、他者から与えられるものであるからであ
る。そして「存在」もまたしかりなのである。
だが、現状では、医療より他に、この病態に
対応できるものはない。というより、あらゆる
制度は、それが現実を構成するフィクションで
あるかぎり、侵襲的なのである。それゆえこの
疾病の前では、医療は、おのれの害なるを持っ
て、それを回復へと導くものとするという困難
を、自らに課すことになるのである。統合失調
症の精神療法がまず目指すものは、彼らにその
存在を与え返すことである。彼らに対して誠実
たろうとするなら、医療は、少なくともいくば
くかは、自己否定的たるを免れえない。
もう一度、発話の状況を振り返ってみよう。
われわれは、自分のいいたいことを、あらかじ
めわかっているわけではない。他者に語りかけ、
他者から与え返されるということ、後からわか
るという契機が、必然的に入っている。この根
本的な「与えられる」回路が、統合失調症では
切断される。それも、コミュニケーションを可
能にする切断ではなく、切断そのものである。
それゆえ、彼らの発話は、いったん発せられ
るや、行方不明になる。漏洩し、剥奪されるの
である。かと思えば、他者から、いきなり暴力
的に意味を押しつけられる。それは自分に張り
つき、自分のものととらえなおす余地は残され
ていない。すでにそう決まっているのである。
行為もまた、その意味は社会から与えられる。
しかし彼らの行為は社会に届いていかない。か
と思えば、逐一モニターされ、批判に曝される
のである。
治療者は、こうした状況下で、患者の前に立
ち現れる。それゆえ、「決して簒奪しない」と
いう意志を持って彼らと向きあわなければなら
ないのである。
7 Byproductとしての精神療法
では、改めて、通常の場合、フィクションは
どうなっているのだろうか。それはわれわれの
現実を構成するものである。このことはすでに
再三確認した。それに加えて、次のことが重要
である。われわれはフィクションの存在を忘れ
ている。それと気づかないのである。もちろん、
ふと気づくこともあるし、限界はあるにせよ、
気づこうとすればできなくもない。だが、忘れ
ているのが本来のあり方であり、それゆえにこ
そ、現実構成的なのである。
われわれは自分の現実を構成するものが何た
るかを知らない。知らないうちに、しかし、行
為の水準では、やってしまっている。できてい
るのである。フィクションはすでに行われ、実
現されている。それゆえ、われわれのフィクシ
ョンについての知は、常に遅れをとり、そして
近似値でしかない。
フィクションに関するこうした事情は、診療
の現場でもそれほど変わらない。この論で一貫
して俎上にのぼっている治療者も、「働きすぎ
て身体をこわしたのだ」といったとき、これは
フィクションであるという意識はなかったはず
である。いささか腹立たしくなっていたとはい
え、そう信じていったのである。そこへ、通常
うつ病者ではあまりないことなのだが、患者は
自分が病気になったのは会社のせいであるとい
い、医者のお墨つきを要求したのである。この
パターンは、むしろパーソナリティ障害を思わ
せるところがある。この類型は、フィクション
のフィクションたることを知り、かつ、統合失
調症のように疎外されているのではなく、そこ
に住まうのである。
医療に従事するものは、それが制度であるこ
とを、振り返ってみればわかるのだが、実践に
おいては忘れている。そして患者に真剣に向き
あおうとする。そこへ、こうした一撃を喰らう
と、ものすごく不快な気持ちにさせられる。
医療は、特権的な場を構成している。世の中
というところから遮蔽した時空を作り、舞台と
している。そういうところだからこそ、私たち
は病者と真剣に向きあうことができるのであ
る。それをabuseされることは、不愉決極まり
ない出来事になる。
逆にいえば、フィクションというみえない枠
組みによって、われわれの治療は支えられてい
る。たとえ統合失調症が、フィクションの暴力
に曝されていても、世の中という最も強力な力
から彼らを遮蔽するのは、医療というフィクシ
ョンである。というより、そうでなくてはなら
ない。
精神医学が自らを科学であると自認するなら
ば、それはフィクションとしての知であり、近
似値にすぎない。フィクションであることには
無自覚である。精神療法を広義にとるなら、そ
れは治療の効果から、「科学的」と考えられる
寄与分-そのようなものが分離できるとしてー
を差し引いた「余り」であり、余りのすべてで
ある。そこには正負双方の効果が含まれる。別
様にいえば、精神医学がおのれを科学と思い込
んでいる、その想定が裏切られる部分に相当す
る。その意味において、まさにbyproductなの
である。
いい換えれば、医学が知らないうちにやって
いることである。それをあえて対自化すると、
精神療法になる。つまりはフィクションがフィ
クションであることについての知であり、あえ
ていえば、ある種の「自乗化された知」である。
そうであるがゆえに、現実をく構成するものと
してのフィクション>に問題をかかえた精神疾
患に対応することができるのである。
精神療法は、フィクションとしての医学に宿
り、それが切り開いた時空を舞台にして行われ
る。そして自らもまた、新たなフィクションで
あり、そのつど構成的なものとして展開される。
フィクションである以上、精神療法もまた、そ
の実践においては、自分がフィクションである
ことを忘れる。これは必然である。
つまり行為の局面で、知は信に転ずる。いっ
たんかかわり始めたら、一生懸命、真摯に営む
よりない。その効果は、やはりbyproductとし
て生ずるのである。
知としての精神療法は、知である限り近似値
でしかなく、後知恵たらざるを得ない。ただ、
行為への拠点として、必要不可欠なものであ
る。
無知な行為と半歩遅れた知、この間を結ぶも
のがあるとすれば、それは「信」である。結局
のところ、医学における精神療法はに最終的に
「信」を与えるものに帰着するのではないだろ
うか。それもbyproductとして、結果として与
えられるものである。巧んで与えらえるもので
はない。ただ、洗練された知と、真摯な行為が
背景になければならないことだけは確かだろ
う。
文献
1)AustinJL:How to do tbings with words、edited by
urmson and Marina Sbisa、0xford university Press、
1962(坂本百大訳:言語と行為.大修館、東京、
1978)
2)Derrida J:Signature evenement contexte.ln
Marges、Editions de Minuie、Paris、1972(高橋允昭
訳:署名・出来事・コンテクスト.現代思想16
巻臨時増刊号、1988)
3)Derrida J:Limited lnc、Gal116e、Paris、1990(高橋
哲哉、宮崎裕助、増田-一夫訳:有限責任会社、
法政大学出版局、東京、2003)
シャイネスと不適応
わたしはテレビで笑ったり泣いたりしている人がどうにかしているのかと思っていた。
そうではないらしい。
でも、大丈夫。
人生は、思ったよりも、あっという間に終わりますから。
*****
シャイネスが学級内での児童、生徒の適応に及ぼす影響
~学級集団内における不適応を生むのは不安か消極性か~ 2002.9.27日本心理学会
○菅原健介 ・ 眞栄城和美 ・ 菅原ますみ ・ 天羽幸子 ・ 詫摩武俊
(聖心女子大学)(白百合女子大学)(お茶の水女子大学)(青山教育研究所)(東京国際大学)
Key Words : シャイネス、対人不安、学級集団
<目的>
シャイネス傾向が個人の社会的適応に望ましくない影響を与えていることは欧米の多くの研究によって指摘されている。しかし、自己主張の少ない日本文化においてシャイネスはむしろ『慎み深さ』や『恥じらい』といったニュアンスとして受け取られ、否定的な影響は少ないとする見方もある。そこで、本研究の第1の目的は、まず小学校高学年と中学生を対象として、シャイネスが学級集団への適応にどのような影響を及ぼしているのかを検討することである。
また、シャイネスには「対人場面における不安感」と「対人行動の消極性」という2つの要素が含まれるが、これらは別個の特性次元として抽出でき、かつ、他の個人特性との関連性も大きく異なることが示されている(菅原、1998)。また、小中校生の双生児を対象とした行動遺伝学的研究では、不安傾向に比べ消極傾向は遺伝的規定性が高く、両傾向の違いが明確化されている(菅原ら、2000)。シャイネスの社会適応への望影響はどちらの要因によって引き起こされるのだろうか?本研究の第2の目的は、対人不安傾向、および対人消極傾向が学級集団への適応に与える影響を比較検討することである。
<方法>
本研究は双生児を対象とした人格発達の縦断研究(菅原ら、2000)のデータの一部を用いて行なわれた。分析の対象者は小学校4年生から中学校3年生までの同性の双生児366組(一卵性192組、二卵性174組)の732名である。ただし、本研究において双生児対は考慮にいれず、すべて個人データとして扱った。分析に使用した尺度は以下の通りである。
1)児童用・思春期用シャイネス尺度(菅原、2000): 対人場面における不安傾向を測定する3項目、および、消極傾向を測定する3項目より構成されている。項目は以下の通り。
・知らない子と会うのは恥ずかしい
・先生と一対一で話すのは緊張する
・私は恥ずかしがりやだと思う(以上、不安傾向)
・自分から友だちに話しかけることは少ない
・クラスの中では目立つ方ではない
・みんなの中では黙っていることが多い(以上、消極傾向)
2)学校生活での対人環境を尋ねる項目(23項目)
3)教室にいる時の気分を尋ねる項目(14項目)
4)最近1年間、学校生活に関して起こった出来事の有無を尋ねる項目(34項目)
5)Harterの自己概念尺度の日本版(眞栄城ら訳)
<結果>
シャイネス尺度の構造: 主因子法プロマックス回転の結果、不安傾向と消極傾向を示す因子が抽出された。合成得点(尺度得点)間の相関は0.398(p<.001)であった。
学校での対人環境項目の構造: 因子分析により、項目を出し入れしながら、最も解釈可能な構造を検討した結果、「からかわれ、ばかにされる」「嫌われている」などの『のけ者意識』、「活躍する場が無い」「皆は私のよさが分かっていない」など、『活躍の場の無さ』の2因子が抽出された。
教室にいる時の気分の構造: 同様の構造分析の結果、「イライラ」「キレそう」「むかつく」などの『不満感』、「不安」「さみしい」「怖い」などの『不安感』、「のびのび」「ほっとする」「あたたかい」などの『楽しさ』の3因子が抽出された。
シャイネスと対人環境、教室内の気分の関連:
不安傾向、消極傾向との関連を検討するため、そのいずれかの下位尺度得点を統制して偏相関係数を算出した(表1)。消極傾向が強い者ほど、学級集団内で『のけ者意識』が強く、『自分の良いところが活かされていない』と感じ、教室内では『怯えて』いて、『楽しさ』を感じないと答えている。しかし、不安傾向との関連は明確ではなかった。また、男女間でこうした傾向に大きな差は認められなかった。
表1 不安傾向、消極傾向と対人環境、気分の偏相関
不安傾向 消極傾向
のけ者意識 .09/ .11 .45/ .44
活躍の場の無さ .25/ .18 .22/ .34
不満感 .05/ .08 .12/ .15
怯え感 .17/ .20 .39/ .35
楽しさ .11/-.02 -.36/-.36
*数字の左は男子、右は女子を表す
シャイネスと自己概念(評価)との関係:
不安傾向、消極傾向と勉強、運動、容姿、友人関係の4つの側面への自己評価との関連を上記と同様の方法で検討した。その結果、消極傾向の高いものほど、男女を問わず、友人関係への自信のみならず運動面への自信が低いことが示された。しかし、ここでも不安傾向との関連はわずかであった。
シャイネスと学校関連の出来事との関連:
不安傾向の高低群、および、消極傾向の高低群を組み合わせて4つのグループをつくり、それぞれの群での学校関連の出来事の経験率を比較した。その結果、基本的に、不安の高低に関わらず、消極傾向の高い群では、「委員に選ばれず」、「学芸会や運動会でほめられることがなく」、「親友ができず」、「成績があがらず」、「いじめられ」、「友だちに悪口をいいふらされ」、「仲間はずれ」にされていることが示された。
<考察>
以上から日本においてもシャイネスは男女ともに児童、生徒の社会適応に望ましくない影響を与えていることが示された。また、その主たる原因は不安が高いことよりも、対人関係への消極性であることも示された。このことから治療的関与の目標として行動面の改善の重要性が浮かび上がるが、消極傾向は遺伝的規定率が高いという知見(菅原ら,2000)を考えると、こうした個性を学校側がどうフォローし、不適応化を防ぐかという環境コントロールの面にも更に注意を向ける必要があると思われる。
統合失調症のメタサイコロジー
多彩な引用の糸により織り成されている。
糸をほぐしていく楽しみもまたある。
華麗なレトリックを横から照らしているのは誠実さである。
*****
臨床精神医学36(1):11-23,2007
内破する自己
統合失調症のメタサイコロジー
内海健
1 はじめに
統合失調症の病像は,近年著しく軽症化し,
臨床の風景は往時と比べてはるかに穏やかなも
のとなった。このことには大方の臨床家が首肯
するだろう。変化の徴候は,1970年代欧州にお
けるBleuler M やCiompiの大規模な経過研究
が,この疾患の予後がそれほど悲観的でないこ
とを示した頃にすでに現れ始めていたことはい
え,そもそもこの疾患がBleuler Eによって提
唱されたときには,現在よりもなお治療可能性
への希望があったのであり,それ以降の約半世
紀が最も暗黒の時代だったのかもしれない。予
後の再評価と軌を一にして,Zubinらがchronicityから
vulnerabilityへと疾病概念を切り替
え,それを嚆矢に,社会復帰や再発予防へと臨
床の軸足が移動した。これらはまずは歓迎すべ
きことだろう。
しかし他方で,この疾患の病態解明は巨視的
にみてそれほど進んではいない。1950年代の精
神薬理学的革命を最後にして,むしろ停滞して
いるとさえいえるのではないだろうか。にもか
かわらず,かつての二元論的対立が,ほぼ生物
学的な見方に解消されていくのもまた奇妙とい
えば奇妙なことである。だが視点を変えれば,
このような事態を招来したのは,精神病理学的
思考の衰弱であることがみえてくる。
こうしてみると,変わったのはもっぱら疾病
観の方なのかもしれない。というよりむしろ,
単に強いパラダイムが消失しただけのことでは
ないだろうか。もっともこのことは,病者たち
が妙な疾病概念を押しつけられなくてすむとい
うご利益を生んだ。例えば「脳の病気」という表
現が持つ影響を考えてみよう。一時代前なら,
それはおぞましい響きとともに,告知された者
に「社会的死」に等しい意味を与えただろう。し
かし今では随分とニュートラルなものとなっ
た。筆者は使ったためしがないのだが,与える
侵襲は,かつてよりはるかに小さいだろう。む
しろ安易に使いすぎることを戒めなけれぱなら
ないほど軽薄なことばになっている。
だが,こうした変化を手放しで評価してよい
かというと,そういうわけでもない。さまざま
な科学的意匠を身にまとうにつれ,記述は貧相
なものとなり,病理の理解は浅薄になっている。
そして臨床家がこの疾患を受けとめる力はむし
ろ衰弱しつつあるように思う。ことの深刻さは
しっかり自覚しておくべきことである。
パラダイムが力を失ったことは,Bio-Psycho-
Socialという今流行の疾病モデルによく表れて
いる。よくいえば統合的なのだが,どれもこれ
もインパクトに欠けるということにもなりかね
ない。それが単に杞憂ではないことは,最近
spiritualという第4の次元が加えられたことに
表れている。bioはともかくpsychoとsocialに
はある意味で致命的なことである。なぜならそ
れらはもはや魂(spirit)に届かないものに成り
下がっているのである。
改めて「統合失調症」と呼称を変えたこの疾患
について,精神病理学的思考を継続しようとす
るならば,psychologyという分野から,いっ
たんきっぱりと袂を分かたねばならない。なぜ
ならそこでは「自己」というものが自明の前提と
なっており,自己そのものが問われることはな
いからである。これではこの疾病の真理に触れ
ることはない。
かつてこの疾患が思春期心性と親和性を持
ち,しばしば自立や自己確立への強い磁場のも
とで発症し,自己のまさに自己性にかかわる病
理を持つことは,ある意味で精神科医の常識で
あった。病者はその最深部において,まさに
自己が「内破」する危機に遭遇しており,その戦
慄は,症状を超えて直截に感じ取られるもので
あった。これはことばの本来の意味でのセンス
(意味=方向性)の問題である。
いうまでもないことだが,DSMにせよICD
にせよ,現時点で精神科の標準的な症候学とさ
れているものは,センスとは無縁である。とり
わけ自己そのものにかかわる病態は描けない。
というのも,これらの体系は「語る自己」を前提
とし,その自己の陳述から成り立っているから
である。自己は透明でなければならないのであ
る。
本稿では自己という舞台をいったん解体的な
局面に導き,その中にスキゾフレニックな病理
のモメントが現れ出るのをとらえてみよう。め
がけるべきは舞台の上で繰り広げられる現象で
はなく,舞台そのものの病理である。
2 自己は差異に棲まう
「私」というもの,あるいは「自己」というもの
は,健常人にはそれと意識されることほとんど
ない。自明なものである。
しかし「私」ほど偶然なもの(contingency)
もない。それに気づくとき,自明性は忽然と
転覆する。考えようによっては,自己はほと
んど奇跡のような狭い隘路をたどって誕生し
たのかもしれない。それは心脳問題という形
で,多くの神経学者を悩まし続けてきた。例
えばPenfieldは電気エネルギーが何故に心の
働きを呼び起こすのかという問いの前に佇み,
EcdesはPopperとの対話の中で,心は脳の外
部から到来したとしか考えられぬと信仰告白し
た。「私」という不可思議なものは,ひとたび懐
疑にとらわれると,それは際限のない不安を呼
び起こす。統合失調症において,それはほとん
ど語られることはないが,他のどの疾患にも比
肩できぬほど,おそらくはその心性の最も深い
ところにある問いであろう。
症例:28歳女性寡症状型
「純粋で悪というものを知らない」という表現が文
字どおり当てはまる,そんな少女時代を過ごした彼
女には,小学校時代から少し年上のICがいた。困っ
たことがあると,夜になるのを待ってベランダに出
ては「彼女」を呼び出し,指示を仰ぐのであるが,そ
れには「ものすごいエネルギーと集中力」を要した。
高校になって,「なんとなくそれはよくない」と思い,
呼び出すのをやめた。
大学を卒業して就労後,半年ほど経ったころ,心
身の不調に引き続く形で発症した。彼女(患者)の様
態は,不安と混乱という粗いくくり方しかできない
ような,つかみどころのないものだった。状態につ
いてたずねられると困惑し,「それが覚えていないの
です」と申し訳なさそうに答えた。ほとんど存在感を
感じさせない穏やかに笑みを浮かべた表情がにわか
にかき曇り,「生きていることがつらいのです」とポ
ツリと語られると,それ以上でも以下でもない氷の
ようなことばとして,聞く側に突き剌さった。彼女
にとっては生きるか死ぬか,その2つしかなく,死な
ないがゆえに結果的に生きているだけといった日々
が続いた。
死の淵に長らくとどまったあと,ある頓悟体験が
訪れ,彼女はようやく小康を得た。それに先駆けて,
発病前の次のようなエピソードが語られた。
休日の午後,彼女はそれとなくテレビを観ていた
のだが,ある出演者が妙に気にかかった。そしてそ
の人がそこまで至るのに,ごく細い道しかなく,そ
の道がガラス細工のように,折れ曲がった線として
見えたような気がした。
人がこの世にかく存在していることの背後には,
ごくかぼそい隘路しかないこと。この危うさの実感
はすぐさま反転し,彼女自身に向けられたのであろ
う。このcontingencyとの遭遇は,恩寵と感じられる
こともあれば,解体的な不安を呼び起こすこともあ
る。そうした正反対のベクトルがなだれ込むゼロ地
点である。
*
自己はまた万古不易のものであったわけでは
ない。それどころか,もしかしたらごく最近の
発明であるかもしれないのである。少なくとも
この疾患にかかわる近代的な自己の場合には,
Foucautの文言を借りるなら,「たかだか2世
紀とたっていない表象」なのかもしれない。
では近代的自己とはどのようなものであろう
か。それはある種の「二重性」によって特徴づけ
られる。そしてそれには2つの系譜がある。
1つは,Foucaultが「人間」の構造として取り
出した<超越論的一経験的>二重性である。お
そらくKantの批判哲学を念頭に置いたものだ
ろう。いま1つは,その約1世紀のちに現れた
Freudの精神分析における<意識一無意識>の
構造である。
近代思想の2つの主要な水脈に,二重構造性
が共通して取り出されること。これは何を意味
しているのだろうか。もしかしたら,自己とい
うものは,自己自身に一致してはいけないのか
もしれない。ピタリと折り重なり,影を失えば,
とんでもない災禍が起こるかもしれない。何か
そうした不吉なものを予感させる。
例えばもしKantがHumeの教え忠実に,世界を経
験的なもの(現象)だけに限定し,経験を越境しよう
とする理性のために超越論的な次元(もの自体)を余
地として残しておかなかったとしよう。そのとき現
象を認識する私は,その現象の中にどのように棲む
ことかできるのだろうか。それは外部へと放擲され
てしまうか,あるいは内部に溶解してしまうことに
なる。あるいはWitigensteinのように,自分の知覚
野にそれが自分の経験であることを示すものがない
ことを発見して驚愕することになる。彼は私を世界
の縁にかろうじて見いだす。
精神分析においても,無意識の系は意識の系に解
消されるようなものではない。例えばLacanが示し
たように,主体が無意識に接近するためには,主体
として消滅しなければならない。あるいは快感原則
は現実原則との差異のもとで定立される。もし欲求
が迂回を経ず即時的に満たされるなら,それは死の
欲動に転ずる。
こうした思想史の一瞥によって示されるの
は,単に自己というものが二重構造を持って
いるということにとどまらない。それはスタ
ティックな見方にとどまる。「2つの自己がある」
というのはさらなる後退である。重要なことは,
自己とはこうして拓かれた差異の中に棲まうと
いうことである。
このいい回しの違いは微細にみえて,実は決
定的なものである。というのも,ここでは差異
が先行していることが示されている。差異こそ
が自己を与えるのである。同一性が立てられる
のはその後というととになる。
自己が自己であるためには,差異が拓かれな
ければならない。近代の自己はその主体性を誇
示しているようにみえて,実のところは隙間を
見つけ,襞を作り,自らが棲む場を見いだし,
そこに身を忍び込ませなければならなかったの
である。
そして統合失調症が自己の自己性にかかわる
ものであるとするなら,こうした自己のあり方
がその病理と深くかかわっていることはいうま
でもないだろう。この疾患に親和性がある者に
こそ,「ヨク隠レタル人,ヨク生キタリ」という
格率は妥当するのである。
統合失調症の理解のために,哲学・思想的観点が
要請されるのは,ある意味で至極当然のことである。
もっともそう容易なことではない。精神分析学はパ
ラノイアを範例とし,転移を基軸にすえる限り,こ
の疾患には歯が立たない。
他方,〈超越論的一経験的>という構図を引き継
いだ現象学は,一定の成果を収めてきた。ただ,そ
れでも十分とはいえない。木村敏のような例外を除
けば,多くの場合がその応用や援用にとどまってい
る。そこにさらに哲学固有の問題が加わる。谷が
鋭敏に指摘するように,現象学がそもそも世界がす
でに成り立った地点から遡及する学である限り,成
功した意識のストーリーしか描くことができない。
その応用にとどまる限り,統合失調症は結局のとこ
ろ欠如態や障害として説明され,それで終わりとい
うことになる。
必要なことは単なる応用ではなく,ある種の「パト
ス的な読み」である。例えば現象学が意識という舞台
を作り上げる際に,そこに分裂を持ち込まざるを得
なかったこと,その軋むような自己の生成を読み取
ることである。
意識が拓かれてあることの,そしてそれが他
ならぬ私の意識であることの徹底的なcontingency,
そうしたことに驚くことこそ,現象学を
はじめとする近代思想の本来の出発点だったは
ずである。私たちは隘路が切り開かれた末によ
うやく生成したのであり,この地点に立ち戻る
ことによってはじめて,統合失調症の病理へ端
緒が見いだされる。
いくらか結論を先取りすることになるが,差
異が消失するとき,スキゾフレニックな病理は
発動する。襞が押し広げられ,間隙から追いた
れられ,自己のcontingencyは白日のもとに露
呈するのである。この強度こそがこの疾患の病
理と深く関わっているはずである。
3 自己は立ち遅れている
さて,自己が差異の中に棲まうものであり,
差異が先行しているとするならば,自己にはあ
る種の「遅延」が内在していることになる。すな
わち,私たちの自己は立ち遅れているのである。
このことは何も奇を街った見方ではない。例
えばごく通俗科学的な発想をするなら,私たち
は事象に常に立ち遅れるはずである。なぜなら,
事象が起こって,しかるのちにそれを認識する
からである。視覚体験を例に取るなら,外界か
らの光刺激が感覚器で変換され,電気信号とし
で末梢から大脳皮質に伝達されてのち,はじめ
て像が結ばれる。しかるのちにそれについての
意味や解釈が付与されるという具合になる。し
かし私たちはそれを「私は見た」という。
ここでBenjamim Libetの実験に簡単に触れ
ておこう(これについては深尾の的確な解説
がある)。
リベットはまず,大脳皮質に対する直接の電
気刺激によって感覚の意識を引き起こすために
は一定の時間(約0.5秒)の刺激の持続が必要で
あることを見いだした(タイム・オン理論)。次
にリベットは脳外科手術中の被検者を用いて,
大脳皮質体性感覚野を直接に電気刺激した場合
と,その感覚野に対応する末梢からの刺激を
比較した。その結果,末梢刺激の方が0.5秒先
行することが見いだされた。ここからLibetは,
「体感の知覚は実際には刺激開始から0.5秒後に
起こっているのだが,主観的には刺激直後に起
こっていると感じられる」と考え,脳の中には
意識的知覚の時刻の「繰り上げ(antedating)」の
機制があるという仮説を提出した。
この実験および仮説についてはいまだ結論を
みず,20年以上たった今も,脳科学や哲学の領
域において議論がたたかわされている。Libet
の前提には,「意識の経験は被検者にしか確認
できず,客観指標はない」ということがある。
私見を述べるなら,この実験では,<意識の系
>と<自然の系>が踵を接して重ね書きされて
おり,そこに心と脳の接続あるいは切断が,ク
リティカルな形で露呈されている。
それはまた,一人称の(主観的)時間を三人称
の(客観)時間上に記し付けることといい換えら
れるかもしれない。客観的時間からみれば,主
観的時間はその中に位置づけられるべきもので
ある。だが主観的時間は客観的時間を超越する
可能性を持つ。そうでなければそもそも時間の
計測も不可能になる。
私ならLibetの「知覚の時間遡行的対応づけ」
仮説は,意識はあたかも時刻を繰り上げたかの
ように自然に接続すると読み替えるだろう。こ
の「かのようにals ob」の紙一重が「自己」のあり
かである。いずれにしても意識の系と自然の系
は同一平面にはない。三人称の等質的な時間を
水平的時間とするなら,一人称の時間は「垂直
軸の時間」とでも呼ぶべきものかもしれない。
知覚よりもより能動的な行為の場面を想定し
てみよう。例えば私が何かの発言をする。私は
これからいう内容をあらかじめ心に描き,そし
てそれをことぱにして他人に伝える。ここには
何の遅れもないようにみえる。しかしそれは今
しがた知覚の局面でみた「私は見た」と同じであ
る。ここではすでに遅れが取り戻されている。
実際のところは,私は声にして出すまで,さ
らにはいってみるまで,私がいいたかったこと
をあらかじめ十全に知っていたわけではない。
いい放って,ことばは眼前の他者あるいは不在
の他者,さらには言語という制度に突き当たる。
そしてそこから意味が跳ね返って,私に与え返
されるのである。何も抵抗を受けない発言は,
虚空をさまよい続けるか,あるいは闇に消える
ことになる。抵抗にぶつかって,はじめて発言
の意図や趣旨が私に与え返されるのである。ど
のように綿密に予定された発言でも,こうした
側面を持つ。そうでなければオートマトンの運
動になる。
行為が終結したとき,実現された意味と本当
にいいたかったことの間に落差が生じる。ここ
で次の2点に注意しなければならない。まず両
者の差異は必然的に生じるということ,そして
その差異の中にこそ,自己が棲むということ。
次に,「本当にいいたかったこと」はもはやない
こと,それどころかそのようなものは最初には
なかったかもしれないということ,さらにいえ
ば,後から(nachtraeglich)生じたのかもしれな
いということである。
知は行為に遅れてやってくる。それと知らず
やっていることを,知は追いかけてきて認識す
る。こうした事態はSchellingがかつて「先験的
過去」と名づけたものに該当するかもしれない。
意識の系を通って,しかる後に過去になったも
のではなく,一度も現れなかったものであり,
垂直軸の方向に沈んでいる。
さて,自己は遅れて立ち上がるといった。し
かしすでに気づかれていると思うが,自己はこ
の遅れを取り戻してもいる。気がついてみると,
いつのまにか知覚の,あるいは行為の主人のよ
うな顔をしているのである。
自己は差異によって与えられたが,遅れを
とっていた。しかしその遅れという落差の中に
自らの場を見いだし,さらにはその遅れを自己
が自己であるための距離,あるいは場とし,つ
いには事象を主体化するのである。ここには遅
延を逆手にとり,ついには先んじるという離れ
業がある。
4 体験の文法
自己はおのれの中に書き込まれた遅れを取り
戻している。
確かに「私は見た」のである。このように過去
形で語られることが,「私は見る」,「私は見て
いる」といった時制よりも強い確信を表現して
いるのは示唆的である。これは単に自分の意識
を経由した過去の経験を述べているのではな
い。その場に居合わせなかったことに対して,
それを自分の経験として取り戻してりるのであ
る。「確かに私はそのときもそこに居合わせた
のだ」と。この取り戻しによって,日常的なふ
くらみのある「現在」という時間が構成される。
それはいくらかあいまいでもあり,柔軟でしぶ
とくもある。
この遅延の取り戻しの成否が,統合失調症の
病理と深く関わっている。彼らの体験様式は,
「現在」が持ってしかるべき厚みが痩せ,広がり
に欠けている。それゆえ,事象はくいきなり>
やってくる。彼らをとりまく空間は,いつなん
どき何か起こるかわからない兆候に満ち,それ
でいて平板でよそよそしいという奇妙な相貌を
現す。そしてそこから忽然と出来事は到来する。
構えができていないところにいきなり衝撃をく
らう。体勢を立て直すまもない。気がついてみ
ると,事象はくすでに>過ぎ去っている。そし
てもはや決定済みのこととして張りついてしま
う。
このくいきなり>とくすでに>が,スキゾフ
レニックな時間のあり方の基本である。彼らは,
人のしぐさをみて異常な意味を付与したり,読
み取ったりするのではない。直観するのである。
それは郵便ポストが赤く見えるのと同じよう
に,すでにそこに与えられている。そう見える
からそう見ざるを得ないのであり,解釈する余
地はない。
幻聴もまた,いきなり到来し,気がついたら
すでに過ぎ去っている。何を告げられたかはよ
くわからないが,得体の知れない衝撃だけが確
かなものとして残っている。あるいは意味だけ
が忽然とそこにある。そして張り付く。私が介
入する余地はなく,聞き従うしかない。
しかしそれでも患者は「聞こえた」という。そ
うすることによって,懸命にこの体験ならざる
体験の主体になろうとする。自己の立ち遅れを
取り戻そうとしているのである。それは自らに
拘束衣を装着するようなものである。体験の文
法はどうにもしっくりこない。だがそうでもせ
ぬ限り,出来事はどこからも承認を受けず,世
の中に登録されぬままさまようことになる。そ
れゆえ患者は空しく,あるいは執拗に「聞こえ
た」,あるいは「聞いた」と繰り返さざるを得な
い。そこに医療の側も加担して,異常を日常に
回収しようとする。その結果,患者は「幻聴を
聞いている」というグロテスクな記述が生み出
される。
だが同時に,「聞こえた」と訴える彼らは,日
常性というものが糊塗している体験のリアリ
ティを述べているのではないだろうか。私たち
は決定的に遅れているのである。しかしそれに
気づいていない。私たちは「聞こえた」という事
象に先行されている。さらには聞かされたので
あり,そこから我に返って自己を立ち上げたの
である。だがそのことは忘れている。というよ
り私たちの経験の舞台はこうして作られたので
あり,いったんでき上がると,舞台の製作過程
は視界の外に消える。
こうした自己の生成について,中島は夢か
ら覚醒する体験に事寄せて論じている。われわ
れは覚醒してはじめて「ああ,夢をみていたの
だ」と振り返る。睡眠中に私は消滅しているは
ずである。しかし後から私は夢をみていた主体
として,その消失を取り戻すのである。
中島の論には次の2つのことを付け加えてお
きたい。1つは夢から醒めたことが「私」を与え
たということ。つまりこの場合は,夢が自己を
与える起源であり,夢こそが自己の真理の場に
なっているということである。いま1つは,私
は目覚めることによって,生理的に覚醒する一
方,現実の中にまどろむのだということである。
そして私の起源と,私がそこから危うく立ち上
がったことを忘れるのである。
こうした自己の生成のドラマは,<睡眠一覚
醒>という生理現象に限定されるのではなく,
常に起こっている。ただそれに気づかぬように
なっているにすぎない。私はそのつど立ち上
がっているのである。水平の時間の中に,垂直
軸の時間が潜在している。
襞が押し広げられ,隙間から追い立てられた
統合失調症は,もはや現実にまどろむことがで
きない。安心して現実の流れに身を委ねること
がもはやかなわない。そのとき,時間の深淵が
例外的に開示される。垂直軸がたち現れ,おの
れの起源が姿を現すことになる。
そこは自己の真理の場であり,現実をはるか
にしのぐリアリティがあるのだろう。それゆえ
病者は「私は聞いた」と執拗に,そしてむなしく
主張せざるをえないのである。
5 起源からの呼びかけ
自己は差異の中に棲むと述べた。実はこの差
異には方向性がある。そのことは<超越論的-
経験的>あるいは<意識一無意識>の二重性
が,非対称な構造であることが物語っている。
今しがたの夢の例に示されているように,差
異とは起源との差異である。自己が自己として
生成するためには,おのれの起源から一定の離
隔を持たなければならない。
例えば名について考えてみよう。われわれの
誰しも何らかの名がついている。その際,まず
私というものがあって,しかるのちにその私の
呼び名がついたのであると考えるだろう。いや,
考えるまでもなく自明なことである。ところが
実のところ,私よりも名は先行している。まだ
自己がないときに私は命名され,その名で呼ぱ
れていた。そしてその呼びかけから,あるとき,
私が立ち上がったのである。
私の自己は,自分の名を核として形成された
のである。Kripkeは固有名を固定指示子rigid
designatorと呼び,意味や属性に還元されない
ものであるとした。彼の理論は,とりわけ人間
の固有名の場合に,ラッセルの確定記述説-
固有名は記述の束に還元できるとするものー
よりはるかに妥当する。私の属性をいくら記述
しても私には到達しない。名を失った私はもは
や私ではない。
ただしKlipkeは固有名をその命名の場面,す
なわち命名儀式まで遡れるとした。ことの成否
はともかく,これは第三者の視点からの発想で
ある。だが人間の場合,それも命名された当事
者にとって,その場面にまでは決して遡ること
はできない。
この命名の一撃は,私の自己の奥深くに隠蔽
されている。現れ出ることはない。しかしそれ
は私の核心をなしている。私が誰かに名を呼ぱ
れるたぴ,私が自分の名前を告げるたび,ある
いは私が私である限り,潜在的には常に最初の
命名儀式がreferされている。私はその一撃か
ら立ち上がったのだった。しかしそれは忘却さ
れている。記憶の射程外にある。
症例:21歳男性 破瓜型
専門学校を卒業したが,就職に失敗してから無為
に過ごしていた。久しぶりに友人と遊びに出かけて
から,にわかに自分の身の回りを強迫的に整理する
ようになり,窓の閉まり具合や机の上にある物の配
置を何度も確認するようになった。しぱらくしてか
ら気分の高揚した時期が続き,家族に連れられて精
神科を受診して入院した。気分障害との鑑別が問題
になったが,次の出来事は彼か統合失調症性の病理
を持っていることを瞬時に直観せしめるものだった。
入院して数日後,病棟から患者の姿が見えなくなっ
た。スタッフが総出で探したところ,事務部の倉庫
で呆然としているところを発見された。表情はいっ
もに比べて硬く,多弁は影をひそめ,おし黙っていた。
何をしていたのか問われると,「自分の名前が載って
いる機密書類がどこかにあるんです」とボツリと答え
た。
症例:23歳男性,緊張型
20歳頃から精神変調がみられたが,彼の風変わり
な家族はことさらそれを異常に感じず,何かと面倒
をみていていた。会社を辞めてからは,父の現場作
業について廻っていた。3年後,緩やかに長く続いた
緊張病状態の果てに入院した。硬い表情とぎこちな
い体の動きが目立ったが,繰り返し「“イサン’につい
て知っていますか?」とスタッフに漏らした。
来院した父は,患者が以前からアルファペットの
母音の書付を盛んにしていたことを思い出し,治療
者と父は,彼の名前をアルファベットで書くとTが
3つあることに気づいた。父自身も昔から名前につい
ていろいろ奇妙な思考をしたことがあるのだという。
彼に改めて聞いてみると「僕はイサンの人です」と答
えた。
自己は自己であるために,おのれの起源を忘
れていなければならない。いい換えるなら,私
たちの意識が立ち上がるとき,それを可能にし
てくれたものを,あたかも夢を忘却するように,
封印しておかなければならない。舞台の上で展
開されることと,舞台そのものの間には分断線
が走っているのである。
多少メタフォリカルな表現に流れるが,統合
失調症者はどこかで起源からの呼び声(Ruf)を
聞いたのかもしれない。あるいは触れてはいけ
ない舞台の秘密を見てしまったのかもしれな
い。彼らは自己であるためには踏み越えてはい
けない分断線を跨いでしまった人たちなのでは
ないだろうか。
彼らの中ではしばしば2つの水準が接続して
しまう。その結果として,いわゆるlogical typing
の混乱が起こる。舞台の上にある一要素に
過ぎないものが,舞台そのものへと底が抜けて
いく。あるいは舞台そのものを舞台上の一要素
が担うことになる。
もっとも舞台そのものが問題になることは,
健康人でも起こりうる。例えば,進学や就職に
際して,青年の心は人生そのものを選択するよ
うな戦慄にかられるかもしれない。あるいは舞
台そのものが根底から変容することもあるだろ
う。異性という未知なるものとの遭遇,子が生
まれて父になることなど。それから忘れてなら
ないのは,時代の変化のわずかな兆候。これら
はすべて,この疾患を発動させうる起爆力を秘
めている。
発病後は,ごく日常的なことでも,それがそ
の地盤へと突き抜けていくことが起こる。例え
ば右に行くか左に行くか,その選択で世界その
ものが変わってしまう。これはこの疾患の解体
の極北である緊張病状態の基本心性である。草
を一束抜いたら,大地まで引っこ抜くようなも
のである。
われわれの舞台として最も重要なものとして
「社会」がある。統合失調症では,自己と社会が
踵を接している。中間のバッフアーを介さずに,
社会の持つ圧力が直接かかってくる。自閉の繭
を紡いでも,それは自己の中に割り込んできて
しまう。
例えば自我障害の多くは,こうした社会から
の侵襲を反映している可能性がある。「考えが
押しつけられる」であるとか,「考えが盗まれる」
というのは,掛け値なしに社会との関係を表現
しているのかもしれない。しかしそれは舞台そ
のものが自分に侵襲してくる訴えとは聞き届け
られず,世界内の了解不能な一事象として処理
され,患者の内部の症状として登録されること
になる。こうして患者は自分の考えが聞き届け
られず,社会の側の考えを押しつけられる羽目
になり,彼らの言説が正しいことを虚しく証明
することになる。
6 虚実のはざま
Foucaultは近代の権力を制度的なもの(規
律権力(pouvoir disciplinaire))と特徴づけ,そ
れまでの目に見える権力である王権力(pouvoir
royal)と断絶したものであるとした。この移行
を象徴するのはもちろんフランス革命である
が,それからまもなくして統合失調症とおぼし
き事例が医学文献に現れ始める。
規律権力は透明であり,健康人には普段それ
と意識されない。しかし統合失調症者には常に
異質なものとして立ち現れる。舞台の上から舞
台そのものへと降りていくに従って,自明性は
恣意性に転じていき,グロテスクな様相をみせ
る。行動も逐一制度的なものとぶつかり,齟齬
をきたす。それまでのように自然にふるまえな
くなる。多少極端なたとえであるが,日本語を
話すたびに,意識して日本語という言語を選び
取らねばならないようなものである。いわゆる
「オンディーヌの呪い」をかけられている。
患者はしばしば虚偽意識にとらわれる。「見
せかけ」,「にせもの」,「陰謀」といった主題に
取り囲まれ,彼は疑いに苛まれる。しかしこれ
は本来,物事の「真偽」の問題ではない。<真一
偽>とはあくまで舞台の上での話である。そう
ではなく,舞台全体の「虚実」の問題である。<
虚一実>というのは,対称的なカテゴリーでは
ない。虚構から現実が作られているということ
である。
とにもかくにも現実が構成されるためには,
とりあえず礎石を置かなければならない。その
礎石は対立物を持たない。世界の内部にはない
ゆえに,共通の尺度がなく,他の礎石と比較し
ようがない。尺度はあくまで礎石が置かれてか
ら作られ,舞台の上で使用されるものである。
私たちは,この礎石を肯定している。という
より,肯定してしまっている。すでにそのうえ
で自分の現実を作り上げてしまっている。否定
すれば自分の土台を転覆させるようなものであ
るし,否定すべくもない。
<肯定一否定>の二項対立以前の肯定は,お
そらくFreudがBejahungとして一瞥を投げか
け,否定(Verneinung)に先行せしめたことを連
想させる。精神分析的文脈において,Bejahung
は親が子どもに与えるものである。私たちは
自分に先行する礎石に対して,「はい(ja)」と
いうしかない。この「はい」は応答でしかない。
Derridaのいうように,つねに2度目の肯定,
あとからの肯定である。
しかし統合失調症はこの掟にあらがう。なし
くずし的に肯定することができないのだ。そう
なると,礎石はにわかに無根拠なものとなる。
恣意性が剥き出しになり,原初の肯定が虚構で
あることがあらわになる。彼らは現実の中に含
まれている虚構(フィクション)に気づいてし
まったのだ。
通常,フィクションは現実と対置される(<
現実一虚構>)。しかしこれは<真-偽>と伺
様,舞台の上での二項対立であり,ある意味で
倭小化されたものである。フィクションの本来
の機能は現実構成的なものであり,現実の中に
分かち難く侵入している。というより現実の礎
石なのであった。そしてこの現実を構成してい
るということに気づかせないでいる(さらに付
け加えるなら,舞台の比喩が示すように,その
うえで繰り広げられる現実の方が虚であり,礎
石の方が実であるかもしれないのである。だが
それは今はおく)。
もっともわれわれもフィクションに気づくこ
とがある。だがそれはあくまで世界の中の出来
事にすぎない。どこか別の場所に正しいものが
見いだされると信じている。というよりフィク
ションに気づいただけで,ひとまず「事は済ん
だ」と安心している。これもまたフィクション
の罠である。
しかし統合失調症はフィクションの差し出す
現実にまどろめない。現実の中の虚に気づいて
いる。そして気づいてしまった「意識の不幸」を
背負い続ける。さらにそこに,「世の中の秘密
に触れてしまった」,「結界を踏み越えてしまっ
た」という「悪」の意識か付きまとう。現世的に
は何も悪いことはしていないはずなのに,それ
でも人々は私を批難し,いずれは官憲が逮捕し
にやってくる。
ここでも悪は<善一悪>の二項対立の中にはな
い。善悪の彼岸における「根源的な悪」である。
彼らは法の内側でその規則を侵犯したのではな
く,法そのものの外に出ることによって,法を
侵犯してしまったのである。
7 差異と同一性
根源的な悪はしばしぱまがまがしい形象に結
実することがある。それは人が結界を踏み越え
たしるしとして刻印されることになる。
症例:35歳男性,緊張型
3人の兄が次々に罹患する中で,彼は父の家業を継
いで一家を支えてきた。しかしその彼も30歳の手前
でついに発症し,その後シューブを繰り返した。
再発のたびに激しく,そして戦慄するような緊張
病性の興奮に陥るのだが,そのとききまって「母が殺
された」と咆哮した。母は5人の男になぷり殺しにさ
れたのだという(ちなみに彼は5人兄弟だった)。男た
ちのうち4名はありふれた名前だったが,1人だけ「ケ
チェンジ」というおぞましい響きを持つ者が含まれて
いた。別のシューブのときも同じ男たちのことが語
られたが,そのときは「ケチェンジ」は「KChange」と
なっていた。殺された母は頭蓋骨が割れ,はじけた
柘榴の実のように脳が剥き出しになっていた。
彼の訴えがあまりにも迫真に満ちていたため,若
い治療者は真偽のほどを患者の近隣に住む職員をと
おして確かめてみた。「随分前に卒中でなくなったら
しいですよ」との報告を受けたとき,治療者は夢から
現実に引き戻された心地がした。
舞台の上から舞台裏へ,現実から虚構へ向
かって遡るとき,かくもおぞましい表象に突き
当たる。それは起源に触れてしまったことを告
げている。
ところで自己であるためには起源から差異が
拓かれてなけれぱならないのであった。起源に
触れることは,自己の解体を意味する。それゆ
え決して触れてはならない。だが次のこともま
た考慮されてしかるべきである。すなわち,私
たちはかつてそこに触れたかもしれないのであ
る。
というのも,自己は最初から成立していたわ
けではない以上,どこかでその母胎から分離個
体化を果たしたのである。心的な世界の中には,
通常は隠蔽されているものの,臍のようなもの
が残されているはずである。
統合失調症の発病,あるいは再発に際して,
しばしば患者には妙に気になるものが現れる
が,その中には起源へと通底する入り口ではな
いかと思わせるものがある。あるいは慢性的に
この「臍」が異物のようにとどまり続けることも
ある。
症例:36歳女性
20代後半から抑うつ的となり,うつ病として薬物
療法を受けていた。その当時から,自分の考えが誰
かに伝わっているというような病的体験が出没して
いたのだが,それはごく最近になるまで語られなかっ
た。数年前から職場で強い緊張を感じるようになり
休みがちとなった。薬物療法が増強されたが,目だっ
た効果はなく,最低限の用足しと,たまに旧友に会
う以外は外出しなくなった。人目が気になるし,自
分の丸顔が恥ずかしいのだという。
そうこうするうちに「親との関係が煩わしい」と,
患者は近くのマンションで一人暮らしを始めた。母
と折り合いが悪いのだという。そして次のようなエ
ピソードを唐突に語った。彼女が中学生のとき,あ
る朝,起きてみると熱があり,いつになくつらかっ
たのだが,母はいつものように自転車に乗って仕事
に出かけて行った。彼女にしてみれば,その日は自
転車で登校したかったのに貸してくれなかったのだ,
と。治療者は怪冴に感じて問い返してみたが,その朝,
彼女は熱があることを母に告げたわけでもなければ,
「自転車を貸してほしい」と頼んだわけでもなかった。
どうことばを継ごうかと治療者がとまどっていると
ころに,「母とはこんなものです」と吐き棄てるよう
にいい放たれた。そこには一縷の取り付く島もなかっ
た。
この事例には妄想や思考障害らしきものは認
められていない。だが,この単一のエピソード
は彼女の人格の中で強い固着点を形成してお
り,異物のように語りだされた。同時に,母と
いうものをすべて規定してしまうようなもので
あった。つまり,個別と普遍がそこでグロテス
クに複合しているのである。
私たちの自己は,その形成に際していくつか
の一見合い矛盾する課題を背負う。例えば,一
方では自己としての個別性を確立しなければな
らないが,他方でその個別性に完全に呪縛され
ず,そこからの超越性を確保しておかなければ
ならない。それはある種の遍在性とでもいうべ
きものであり,決断や成長などの礎石となり,
環界の変化に対応せしめ,そして他者への通路
ともなる。
起源へ通底する入り口は,自己の中に痕跡と
して残されている。その地点を通ってわれわれ
は自己になったのである。それは個別性のしる
しであり,私たちを交換不可能な自己となす。
他方,それは過ぎ去ったものとして,乗り越え
られていなければならない。そこからの自由を
獲得していなければならないのである。
いわゆる自己のアイデンティティとは,起源
の痕跡を核として,その上に堆積していくもの
である。年を経るごとにそれは厚みをまし,ゆ
るぎないものとなる。差異をつねに拓くという
課題は慣性に委ねられていく。そしてこの疾病
のリスクはそれとともに減衰していくだろう。
統合失調症の病理は,この自己であるための
差異が拓かれるところに見いだされる。そこで
彼らは起源の力と遭遇するのである。ただし力
そのものは無症候であり,症候は同一性という
舞台の上で繰り広げられる。
おそらく差異から創発されたばかりの同一性
は,いわゆるアイデンティティのような重たい
実体を持たず,よりしなやかなものだったはず
である。それはKantの統覚Ich denkeのごと
きものかもしれない。すなわちそれ自体は内容
をもたず。しかしすべての経験に身をしのばせ
ている。何も事象に変化を与えないが,そこに
「私には~と思われる」という透明なベールをか
ぶせる。そして統一のないはずの事象にまとま
りを与え,私の経験とする。先行しているはず
の出来事に対しても,そこに私が居合わせたか
のようにして時間を架橋して,遅れを取り戻す。
新しい事象が起きて何がしかの変化が生じて
も,私は私であり続けるだろうという安心感を
与え,そして予測という行為を可能なものとす
る。
だがこの疾患の病理を受け止めるとき,同一
性は実体的なものとなり,そのしなやかさを硬
化させることになる。しかも同一性は,その淵
源であり,そこから創発された差異への通路を
失っている。そのかわりに,起源の力との衝突
によって形成されたもの,すなわち症状が,同
一性の核となる。自己を見いだすために必要
なものとなる。そうなると症状は手放せない。
ここにこの疾患の治りにくさの1つの理由があ
る。
それはかつて命名や呼びかけによって私が立
ち上がった構図と似てはいる。しかし自己を与
えてくれた力は,みずから退隠していき,地平
に沈んでいる。その痕跡だけが自己のどこかに
刻印されている。だが統合失調症では力は顕現
したまま,立ち去らない。それゆえ差異を拓く
恩寵の力ではない。自己に自由と自律を与え返
さないのである。それどころかときとして深淵
の中に誘い込むのである。
8 おわりに
紙幅も尽きたので,最後にもう1つ症例を提
示して稿を終えることにしたい。
症例:38歳女性
発病してすでに10年以上経つが,その間に結婚し,
子どもはいないものの,ひっそりと家事に従事して
いる。いつも上品な身なりで,穏やかな笑みをたた
えて来院する。何気ない生活上の話題がほとんどの
診察時間を占めるが,最後の方で,幻聴が残存し
いて,なかなか取れないことが語られるのが常であっ
た。治療者は彼女の希薄な存在からかすかにかもし
だされる品格に,いつも癒されるような心地があっ
た。何とか幻聴を和らげようと,幾度も処方を変え
てみたが,彼女の状態にはそれほど大きな変化はな
かった。
ある時,同僚と語らっている折に,ふと次のよう
な一連の考えが治療者の脳裏に紡ぎ出された。’
彼女の幻聴は,すでに歳月を経たものであり,容
易に消えることはないのかもしれない。今の時点で
どの程度苦痛なのかは定かではないが,かつての力
との遭遇の爪あとは,今では自己確認のよすがになっ
ている可能性がある。それゆえなごやかな時間が診
察室を浸していても,必ず最後に語られるのだろう。
病勢の激しい折に,この幻聴はきっと彼女を苦し
めたに違いない。そのときには彼女は幻聴を「聞いて
いた」のではなかった。そんな余裕はなかったはずで
ある。幻聴が到来するたびに,彼女の自己は解体し
ていたのだろう。しかし時が経つにつれて,彼女に
は幻聴が「聞こえる」ようになり,幻聴を聞いている
自分に気づくようになった。自己を与えるものに次
第に変貌していったのではないか。そうすると今で
は彼女の人格の芯のようなものかもしれない。
幻聴は彼女が病気について語る唯一の回路である。
彼女の中の異物として差し出し,それを通して治療
者とかかわりを持つことを可能ならしめている。そ
して力の傷跡を,医学といういささか特異な言語で
はあるが,医師とともに語ることにより,飼いなら
しているのかもしれない。意識がconscienceと呼ば
れるのは,他者とともにそれが可能になるものであ
ることを雄弁に物語っている。彼女は私に「聞こえた」
と報告することによって,自己を確認しているので
はないだろうか。
彼女はどこかでこの幻聴が消えるわけはないと
思っているのかもしれない。少なくとも今しばらく
は必要だと感じているようにも思える。そうだとす
ると,治療者が一生懸命症状を取ろうとしているの
はどういうことなのだろうか。彼女が治療者を欺い
ているとはとても思えない。その一生懸命さだけを
受け取ってくれているのだろう。そういえば,私自
身も処方を変えるたびに,めざましい効果はないだ
ろうなと,どこかで思っていたのではないだろうか。
彼女は医療のうさんくささに気づいている。それ
でもそのことは荒立てない。気づかずー生懸命取り
組んでいる私に,少しだけ委ねてくれているのだろ
う。けれどもまだ完全にまどろむわけにはいかない
のかもしれない。
おそらく統合失調症という病の治療には,差
異の回復ということが極めて重要な課題になる
だろう。そのとき,次のことを思い出してしか
るべきである。すなわち,自己を生み出す差異
とは,記憶の彼岸にあるものの,かつて他者が
私に与えてくれたはずのものである。
それゆえ基本は至極単純なものとなる。治療
者との間に,患者の自己があらたに回復するた
めの差異が拓かれることである。それは襞のよ
うなものかもしれぬし,シェルターのようなも
のかもしれない。もちろん実際には容易ではな
い。彼らは他者を恐れている。だが,退行しよ
うにも,そこには起源の力が待ち構えている。
彼らが安んじて退行できる場があるとすれば,
それは他者との間以外に見いだすのは困難なの
ではないだろうか。