SSブログ

病前性格を記述することの難しさ

病前性格と一言でいい、
病気ではなくても、性格は?なんていうのだが、
そんなに簡単ではない。

どんな場面名でどんなふうに反応するかが性格というものの全体であるが、
たとえば診察室でその全部を把握することはできない。
診察室での態度、話し方、話の内容、医者、事務への態度、そのあたりがせいぜいである。

人間の性格の一番くっきり出る場面は、集団場面であり、
デイケアなどで集団運営すると、それはもうくっきりと現れる。

これは学校の先生が生徒の特性を把握するときの印象に似ているだろうし、
会社の上司が集団としての部下を率いているとき、観察される部下の行動特性に似ているだろう。

二者関係での性格特性と
多者関係での性格特性はかなり異なる。

二者関係の性格特性の原型は母子関係であるが、
母子関係がずれていたら圧倒的に問題だし、
母子関係は基本的に問題ないとしても、
それをいつどのような場面で出すかという事は、
大きな問題である。
しばしば不適切な場面で二者・母子関係を持ち出してしまう。

親から見えている性格も一部ではあるが、独特であるから、
治療者に話していただけば、大変参考になる。
同時に、親の性格も大体分かる。

性格検査用紙で分かることは、性格の一部でしかないし、
医者の知りたいこととは少し違うことのようだ。

性格検査で見えてくるものは、単にどの項目に丸をつけるかではなくて、
そのときのつけ方の全体がどんな風だったかである。
そこにある種の特性が現れる。

*****
一人の人間が同じ場面で違う行動をする。
その場合、性格をどう記述するかも、問題である。
性格傾向として記述すれば足りるのか、
あるいは、
普段と違う行動をしていること自体が問題なのか、そのあたりもある。

*****
生育の各時期で、性格は環境への適応として獲得される。
それが年輪の様に刻まれている。
医者は診察室で話を聞きながら、その性格の年輪をたどってみる。
それは時間がかかるし、終わりということもない。

しかしそのように蓄積された性格のレパートリーは、
生活のいろいろな場面で顔を出す。

例えば、仕事のとき、上司に対するとき、親に対するとき、子供に対するとき、妻に対するとき、アルコールが入った時、昔の友達に会ったとき、異性との場面、危機の場面、
ときどきは、これがその人かと思われるような行動をしたりする。

多くは過去の行動パターンの応用である。
だから、現在を見て、過去を推定できる。

現在起こっていることは、診察室でも起こる。
強迫性の人は治療にも強迫性になる。
被害的な人は治療場面でも被害的になる。

*****
治療場面と、現在の生活と、過去の生活と、三者は重なり合う。
重なり合ったところに「中核問題(Core Conflict)」が存在する。

*****
そのように、性格は層構造をなしていて、
違う場面では違う性格を発揮するものだ。
その全体を統合するものがセルフ・アイデンティティというものだ。
ここが定まっていないと、どんな場面でどんな行動をするか自分でも分からなくなる。

*****
こんな中では、
よそよそしさや親しみやすさは、比較的分かりやすいものの一つだ。
対人距離と言ってもいい。

例えば、飛行機で、向こうも慣れない英語で、フィンランドの中年婦人が話しかけてくる。
当たり障りのないことを言っておくわけだが、
そんなとき、対人距離の感覚が出る。近いか遠いか。

*****
対他配慮を対人距離に還元するのは無理なような気がする。

対他配慮は、自我防衛のなかでも高次のもので、
めったに批判されず、おおむね尊敬され、いい結果を産む、
親切のイニシアチブのようなものだ。
相手に合わせて相手が気持よくなるようにするという、
お茶やお花のおもてなしのようなもので、
あくまでも相手にあわせて、
親切の先制攻撃をするのである。
必勝パターンである。

このような高度な技はなかなか要素に還元できるものではない。
まず相手のことが見えていないといけない。
そして、自分のできることが分かっていなければいけない。
その上で、喜んでもらえるように配慮するのだから、
大変に高級である。

対他配慮のできる猫など、いそうもない。
犬ならできるかもしれない。

*****
この、犬ならできるかもしれないというところが、
ひょっとしたら、順位性社会の原理に還元できるかもしれないと思う点なのだ。

*****
むしろ、利益を未来に預金するみたいな感じだと思う。

この言い方でいうと、
協調性は対他配慮とかなり違う。
協調性は先制的なところが薄いし、親切をするというよりも、
その場の空気に反対はしない、感じがある。

協調性の範囲でのリーダーシップは、
なんとなくできた合意をそのまま保持するというだけのリーダーシップのようだ。

積極的に妥協点を探す調整型でもないし、
自分の考えに同調させるよう引っ張って行く型のリーダー(これが本来のリーダーだが)
でもないように思う。

協調性は日和見と言ってもいいし付和雷同と言ってもいいくらいのものも含む。

笠原先生は積極的に対他配慮と考えているようだ。
利他行為と関係していると思う。

利他的行動も動物に深く根ざしているものだ。



共通テーマ:健康

「食べない、食べられない、食べだしたら止まらない」

これは切池信夫先生の
摂食障害についての本のタイトル。
うまいことを言うものだ。

食べないというのは、強い意志だ。
人間は危機に備えて少しでも脂肪を蓄えるようにできているのだから、
そのメカニズムに反して、意志の力で立ち向かうのだから、
強い力である。

食べられないというのは、
それが意志ではなく、意志よりも下の、潜在的な力にになったということだろう。

食べだしたら止まらないという表現も見事で、
確かにそのとおりだ。

そのことをall or nothing という場合もあるが、
それだけではない。
ぎりぎりまで持ちこたえて、
そのラインを突破されると、もうどうにもできない。

どうしてなのかいい加減なことができない。

食べるというのは負けるということで、
いったん負けたら、そのあとは無力感に支配される
学習性の無力感といってもいいのかもしれない

第一食欲に立ち向かって勝てるはずがない
とても強い本能なのだから

食べる人しか生き残っていないのだから
今生きている人すべては
食欲の勝っている人の子孫なのだ

それなのに食べないと決意するのだから
最初から無理なような気がする
どうしてそんな無理なことを決心するのか

そこにもたぶん学習が作用していて、
すこしだけ節食すると面白いように痩せる
だから学習性の拒食になる

それが次第に内在化するというか器質化して
拒食症になる

それがある点まで持続するが
結局食べ始めて
食べ始めると止まらない

ほどほどということがない

*****
強迫性性格の人たちも
そんな傾向がある

自分自身についてのハードルを
思いっきり高く掲げてしまう
そしてぎりぎりまで努力する
それはたいしたものだ
そしてその後で疲れきってすべてを投げ出す

このように見れば
強迫性行動にも波があるように見える

食行動についてはもちろん波がある

波が出たときにそれにとらわれるように仕向けてしまうとますます
とらわれる

*****
食べだしたら止まらない
というのは
確認しだしたら止まらない
というのと似ていて
ここで波が発生するように思う

不可能な目標を掲げている限り
必ず負ける

非常なチャレンジャーであるが
常に負けるチャレンジャーである



共通テーマ:健康

生き方を粗末にするということ

言葉遣いを粗末にするということは
自分の生き方を粗末にするということ
と竹西寛子が述べている。

わたしは
「一日を丁寧に生きること」という命題を愛する。

しかし
生き方を粗末にするとはどういうことだろうかとも考える。
誰しも、自分の人生を粗末にしたりはしない。
理由があって、一見、粗末に見えるような扱いをしているのだ。

人生なんて石ころよりも重いもんじゃないというのも
かなり高度な認識だし
自分の人生を、何よりも大切と知りつつ、あえて粗末に扱ってみるという
人間的な振る舞いもすばらしいと思うのである

共感はできないが、
そんな生き方もあるだろうとは思える

共通テーマ:健康

詩経から古今集へ

古今集の四季の歌は、
自然の運行や宇宙の呼びかけに対し
当時の歌人たちが
歌で答えたのではないかと、
竹西寛子の考察。

これは特に珍しいものではなく、
中国古代の詩経では顕著に、天への願いであり、呼びかけであった。

中国古代では、天から人への通知は、易教である。
今でも易断として残っているが、
天からの通知を亀の甲羅で占ったりしていたものだろう。
天気や季節については、
農耕の関係で現在よりもかなり切実に考えられていたはずで、
いろいろな微細な兆候を判断の根拠としてあげていたのではないかと思う。

天から人へのメッセージを易として受け取り、
逆に人から天へのメッセージは詩経としてまとめられている。
各地の収穫を願う歌などの集積だろうが、
かなりまともに天へのメッセージと思っていたと思う。

その泥臭い感覚からすれば、
古今集の四季の歌などは洗練されすぎていて、
やはり文明化の果てというしかないものだろうと思う。

詩経では豊饒を願っての類感呪術がたくさんあり
登場するのは多産で生命力盛んな生き物たちである。
それはほとんど未開人の習俗を連想させる。
血まみれである。
古今集になると描かれているものもかなりきれいにまとまっていて、
着物の柄のようである。
抽象的な模様である。


*****
実際、詩経を読んでも、解釈は難しく、解説頼みである。
読解には文化人類学が役立つ。
これは人間の心理のさらに古層にあるものといってよいものだと思う。

共通テーマ:健康

6万年前のアフリカで

最近のDND分析によると、
現在の地上の人類はすべて、
約6万年前の東アフリカのある小集団を祖先にしているらしい。

ここから考えると、
たぶん、共通の言葉があった。
そう想定して悪いことはない。

またたぶん近親相姦が習慣としてあった。
そう考えてもおかしくない。
その当時は、握手とかマッサージとセックスを区別していなかっただろう。

子供はたくさん死んで、
人間は長生きしなかっただろう。

「所有」の概念はいつころからあったものか。
「縄張り行動」は動物に見られているので、その延長なのだろう。

それにしても6万年前といえば、
大して昔でもない。

共通テーマ:健康

アレルギーの学習と不安の学習

不安の病理は
学習の障害という色彩がある

パニック障害
全般性不安障害(GAD)
PTSD
社会不安障害(SAD)
強迫性障害(OCD)
など、本来は強い学習をすべきではない場面で、
長期に残る学習をしてしまった結果であると
見ることもできるだろう。

PTSDの場合には、衝撃そのものが強力である。

パニック障害の場合、
たとえば、電車に乗った時の動悸が強く学習されてしまうメカニズムがあることになる。
何かの事情で、本来は閉じているはずの学習回路が開いてしまったものと思う。

こうした事情はアレルギーとよく似ている。

不適切な強い学習。
そのあとの脱感作のプロセス。
しかし一面では、反応が強すぎることを除けば、有用な反応であること。

本来有用な回路であるので
完全に抑制することも合理的ではない。



共通テーマ:健康

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。